月の光を受けて、波間に夜光虫の群れがきらきらと光っている。
海の上に無数の光のくずをばらまいたようなそれはたゆとう波に揺られて、あるものは沖へ遠ざかり、またあるものは砂浜へと打ち
寄せられる。

 ヴィンセントは波打ち際にじっと座り込んだまま、波に揺れる夜光虫の光を見つめていた。
濡れた髪から滴り落ちる海水が彼の手の甲に落ち、涙のように流れて砂に吸い込まれていく。


 
夜の海に飛び込んで着衣のままやみくもに泳いだ彼を、空に浮かんだ三日月は黙って見守っていた。南国の海は夜になっても
太陽のぬくもりを残し、まるで羊水のように彼を包み込む。

ヴィンセントは勢いに任せてはるか沖まで泳ぎ、彼を獲物と間違えた水棲のモンスターを変身して食い殺した。血の匂いに誘われて
現れた大物も、彼の八つ当たりの犠牲となる。

 
平和なビーチの沖合いを血に染め、自己嫌悪に陥り、もう何もしたくないと投げやりに波間に浮かんでいた彼を、海はなだめるよう
に砂浜に送り届けた。戦いの際になくした靴まで、静かに浜辺に打ち上げられる。


 
ヴィンセントは海から返された靴を拾い上げ、逆さまにして中の海水を出すと自分のそばに転がした。
いつもなら変身後は猛烈な空腹に襲われるのだが、ガリアンの姿で水棲モンスターをたらふく食ったおかげで何ともない。
しかし、それがまた無性に悲しい。


『所詮私は宝条の実験サンプル、ということだ』

 
ジェノバ戦役の英雄の正体は、メタモルフォーゼ実験の稀有な成功例。カオス因子の移植のおかげで、かろうじて命を繋いだ
死に損ない。
半ばモンスターと化した自分が、はたして彼女に相応しいのだろうか。
ヴィンセントは惨めな気持ちで片方の膝を両腕で抱えると、その上に顔を伏せた。


 耳に届くのは波が静かに砂浜に打ち寄せる音。波に運ばれた砂粒がかすかなささやきをくり返すそこに、ヴィンセントの無言の
嘆きがゆっくりとしみ込んでいく。




 
月が群雲に隠れたにも関わらず、海に漂う夜光虫の光は強さを増した。ライフストリームが宿ったかのように明滅する光は徐々に
ひとつの固まりとなり、朧な人の姿を作り上げる。

 
現れたのは銀髪の美丈夫の姿。

「久しぶりだな」

 
だが、砂浜にうずくまる影は微動だにしない。好敵手の腑抜けた姿に眉をひそめ、セフィロスは海上をすべるように移動して砂の
上へ歩みを進める。


「聞こえているはずだ。応えろ」

ここに存在するはずのない者の声に、ヴィンセントは面倒くさそうに頭を起こした。常の鋭さを失った夕日色の瞳が緩慢に訪問者を
映し出す。


「…もう復元したのか」
「思念体は脆いが、修復するのもたやすい」

 
セフィロスの像は優雅に両手を広げて見せる。
かつてカオスの泉で対峙した時、ヴィンセントはエンシェントマテリアを使ってカオスを召喚し、ジェノバを「食わせた」のだった。

 
だが、今のヴィンセントはセフィロスの思念体が現れたことに対しても関心を持たない。焦点の合わない視線を夜の海に戻し、
意味もなく夜光虫の群れを見つめ続ける。


「カオスのフラグメントどもを騒がせるのはやめろ」

 
唐突にセフィロスが意味不明ともとれる要求をつきつけた。ヴィンセントは視線を夜の海から動かさない。魂の抜けたような抑揚の
ない声がそっけない返事をかえす。


「何の話だ」
「お前の感情が臨界点を超えると、フラグメントどもが召喚されるのかと騒ぎ立ててうるさい」

 
セフィロスの話によると、星に帰ったカオスはエンシェントマテリアにより今だヴィンセントの影響下にある。支配などできるはずも
ないが、一時的に召喚して憑依させることは可能だ。
ヴィンセントの精神状態の振れ幅が極端に大きくなると、それが怒りであっても悲嘆であってもカオスのフラグメントは影響を受ける
のだという。ライフストリームの中でまどろむセフィロスにとっては、安眠妨害も甚だしい。


「今更何を落ち込むことがある。母さんの好みは年上のインテリ男だ。お前は最初から対象外だろう」

 
今のセフィロスが『母さん』と呼ぶのは、ジェノバではなくルクレツィアだ。
十分にへこたれているところに致命的な一撃を加えられ、ヴィンセントの心臓は一瞬鼓動を止めた。
呼吸をするのも忘れ、さすがに苦しくなって息を吸い込んだところで、心臓も思い出したように拍動を再開する。


「な、何を…」
「考えてみろ。お前の父親、宝条、それに今回のあの男。三人ともかなり年上だ。しかも母さんと同じ科学者でもある」
「………」

『科学者』のキーワードにヴィンセントは再び打ちのめされる。それを見下ろしてセフィロスは鼻先で笑った。

「まあ、主食がパンでもたまにはライスが欲しくなることもある。お前は酔狂で選ばれたライスのようなものだ」

 
ヴィンセントは何とか反論しようと口をあけたが、言葉が出てこない。洩れてくるのは息も絶え絶えの喘ぎばかりだ。
主食ではなく酔狂で選ばれたライス。あまりに残酷な比喩だが、違うと反論しきれないのは、彼自身がそうと悟っているから。

「落ち込む暇があるならせいぜい母さんに飽きられないように努力しろ。ただし、所詮かりそめの主食だがな」

 
冷たい嘲笑を残してセフィロスは消える。
後には茫然自失したヴィンセントが残された。
 




 ビーチサイドにあるエントランスを警備していたWRO隊員は、びしょぬれのヴィンセントに肝を潰したようだった。
だが、暗い光を宿した彼の瞳を見ると何も聞かず、黙ってビーチタオルを探し出して来てくれた。その行動が同情からなのか恐怖に
よるものなのか、微妙なところである。

 展望レストランの照明が消えたのは海岸からも見えた。懇親会は終了しているはずだが部屋にルクレツィアは戻っていなかった。
恐らく、24時間営業のパブで2次会でもやっているのだろう。


 ヴィンセントはシャワーで海水と砂を落とし、バスローブをひっかけて窓辺のソファに座った。
オーシャンビューの窓から見えるのは一面の暗い海。彼の目には夜間に航行する船の明かりがちらほらと映る。

 彼は手にした携帯を眺めてしばらく逡巡していたが、ようやく決意したように短縮ボタンを押した。
小さな電子音を立てる携帯を耳に当てる気にはなれず、まるで恐ろしいもののように見つめる。数回の呼び出し音の後、電話は
無情に留守番メッセージに切り替わった。


『ただいま電話に出ることができません。発信音のあとにメッセージを録音してください』

だがヴィンセントは固まったまま動けない。メッセージなど思いつきもしない。
 
携帯に出ないということは、気付かないほど話に夢中になっているのか。それとももうどこかで眠ってしまっているのか。
しかし一体どこで?
リゾートホテルであるここは殆どがツインルームだ。まさか、グラントの部屋にいるなどということは…

 
ヴィンセントは立ち上がり、部屋に備え付けのコードレスホンを取り上げた。主だった参加者が宿泊している部屋番号は全て頭に
入っている。ルームナンバーがそのまま電話番号になっているため、あとはボタンをプッシュするだけだ。


だが。

 
電話をかけて、彼女が部屋にいてしまったらどのようなリアクションをすればいいのか。
グラントは彼女が同席しているなどと答えるだろうか。
それに、もしシャルアの部屋に転がり込んでいるのだとしたら、客に余計な迷惑をかけることになる。

 
しかし、シャルアはシェルクと同室だ。そこにルクレツィアが行っても、空いているベッドはない。

ヴィンセントは裸足のまま室内をうろうろと歩き回る。

それなら、シャルアの部屋に電話を入れてみればいい。その番号を押しかけた指先が再び止まる。

 
この電話に出るくらいなら、先ほどの携帯に出るはずだ。着信履歴は残るはずなのにコールバックもないということは、もしかしたら
もう眠っているのかもしれない。明日もあることだし、起こしてしまうことは避けたい。


 
コードレスホンが痺れを切らしてツーツーという音を立て始める。
ヴィンセントは肩を落として電話を充電器に置き、とぼとぼと窓辺のソファに戻った。外の暗い海と空は彼の心情を映し出しているか
のようだ。月さえも雲に隠れて姿を見せない。彼の元には戻らず他所で眠りについたクレシェント・ムーン。

ヴィンセントは不愉快な想像を追い払うように頭を振った。

『酒に酔えればいいのだが…』

 
改造を受けてから、アルコールは彼を捕らえることはなくなった。
睡眠薬ももちろん効かず、正気でいたくないと思うのならば、リミットブレイクして魔獣に意識を明け渡すしかない。


『ルクレツィア…』

 
彼は膝を抱え、身体を丸めた。吐息は細く頼りない。
眠気を催したわけではなかったが、視界に入る全てが疎ましくて、ヴィンセントは両目を硬く閉ざした。






 ホテルの長い廊下をルクレツィアが白衣の男と歩いている。ヴィンセントは彼らに追いつこうと歩みを速めた。


「ルクレツィア!ちょっと待ってくれ!」

声が届かないはずはないのだが、二人の後姿はどんどん遠ざかる。小さく舌打ちし走り出そうとした彼の腕に、鎖が絡みついた。

「…?!」

 
神羅屋敷の地下に置かれていた拘束椅子。それがいつの間にか背後に迫って彼を捕らえ、両手両足を鉄の枷で拘束する。
あの日の恐怖と絶望をいやおうなく喚起する、冷たい金属の感触と背に当る椅子の硬さ。
忘れようとしても忘れられない実験サンプルとしてのおぞましい記憶に、彼は総毛立った。


『クックックッ… 第1の魔獣因子は定着したようだな。では、次の因子を移植しよう』

 
思い出したくもない耳障りな声が空間に響く。マニピュレーターが目の前に運んできたのは緑色の液体を満たした注射器。
恐怖と嫌悪にかられたヴィンセントはなりふり構わずにもがき、無理やり枷から抜け出した。傷を負った手足から血が滴り落ちて、
うすぼんやりとした闇の中に彼の足跡を残していく。


『どこに行こうというのかね?私のかわいいサンプルよ。お前は既にモンスターだ。人間になど戻れはせん!』

 
痛む脚をおして必死に走ったのは宝条の哄笑から逃れたかったからか。それとも人間に戻り、遠くに小さく見える二人に追いつき
たかったからなのか。 


『ヴィンセント、どうしたんだね?そんなに慌てて』

 
振り向いた白衣の男は、黒いマントをまとったグリモアの姿に変わった。グラントを追ってきたつもりのヴィンセントは息を切らせ
ながら立ち尽くす。

『ちょうどいい。会ってもらいたい人がいるんだ」』

父は温厚な笑みを浮かべてそばにいたルクレツィアの肩を抱き寄せる。ルクレツィアは頬を染めてうつむいた。

『紹介しよう。新しいお母さんだよ』







 滅多にあげたことのない悲鳴を上げてヴィンセントは飛び起きた。
呼吸をすることもままならずバスローブの胸元を鷲づかみにして喘ぐ。見開いた目は何も映してはいない。
全身が冷たい汗に濡れ、心臓の鼓動がやかましいほど自分の耳に響いてくる。


「…ルクレツィア……!!」

 
壁の一点を凝視していた夕日色の瞳に金色の光が宿り始める。半ばはだけられた左胸から煙るような白い光が浮かび上がった。
極限まで追い詰められて恐慌状態寸前の彼の魔力は、エンシェントマテリアにより指向性を持って星に働きかける。
受け手となるのは、命を狩り取り星の海へと導くファイナルウェポン。


「…だから、カオスのフラグメントどもを煽るなと言っている」

 
容赦のない一撃が正気を失いかけたヴィンセントの頭を襲った。
後頭部を殴られた勢いで自分の膝に額を激突させた彼は、声も出せずに両手で頭を押さえて丸くなる。
膝も額も、頭も痛い。一般人なら首の骨が折れて速やかに星に還っているだろう。
目の前には七色の火花が延々と群舞を舞っている


 
部屋に現れた銀髪の美丈夫は、腕組みをしてその様子を見下ろした。

「少しは正気に戻ったか」
「…黙れ、思念体」

 
額に赤いタンコブを作り涙目になったヴィンセントが、後頭部を押さえながらようやく顔を起こした。
命に別状ないとは言え、セフィロスの力で容赦なく殴られた痛みは想像を絶する。脳震盪を起こした彼は、さすがにソファから立ち
上がれない。乱れたバスローブ姿のまま眉間に手を当てて、痛みと酷い眩暈が治まるのをただひたすら待っている。


「母さんがもうじき帰ってくる。その見苦しい姿を何とかしろ」
「ルクレツィアが…?」

ヴィンセントは額に乱れかかる長い前髪の隙間から胡散臭そうな視線を向けた。

「何故それが判る」

セフィロスは薄い唇に涼やかな笑みをのせる。

「俺は夢の中で母さんとリユニオンする。失われた時間を取り戻しているところだ」

 
ルクレツィアの夢の中に現れ、わずかな時間と記憶を共有する。その母子のふれあいは彼女の目覚めと共に中断されるという。
シェルクにダイブされたことのあるヴィンセントは、SNDに似たようなものかと理解した。
眉間に当てていた手を離し、気怠げに乱れた長髪をかき上げる。


「…結局、親離れをしていないということだな」
「ジェノバよりはよかろう?」

 
限りなくダークな冗談だが、思念体は言葉の辛辣さの割りに濁りのない笑みを見せる。ヴィンセントは半ば呆れて口を閉ざした。
こうも堂々と開き直られては二の句が継げない。


「それより」

 
短い笑いを収めると、セフィロスの思念体はまだ動けずにいる男の胸倉をつかみ上げた。だらりと両腕を下げたままの投げやりな
態度の相手を歯痒そうに睨みつける。


「お前は何度母さんを寝取られたら気が済むんだ」
「寝……?!」

 
衝撃的な言葉にどんよりとしていた夕日色の瞳が大円に開かれた。心臓が跳ね上がり倍以上の速度で鼓動を打ち始める。

まさか、それでは、やはり彼女は……

「そうなのか…?」

重低音の声が緊張のあまりうわずる。痛々しいほどに真摯な問いをセフィロスは鼻であしらった。

「今のところはまだ、だ」

 
詰めていた息を一気に吐き出して緊張を解いたヴィンセントのローブを両手でつかみ、銀髪の半神は力任せに揺さぶる。

「情けない。それでも男か!」

 
仮の主食であろうと、選ばれたからには男としての勤めを果たせと、セフィロスは弾劾する。
ヴィンセントにしてみれば、最初にルクレツィアを奪った男の息子から言われる筋合いはない。

 
だが頭半分背の高い相手に吊り上げられ揺さぶられ、彼に反論する余裕など与えられなかった。当惑と憤慨とが混在した表情の
彼を覗きこみ、ルクレツィアの息子が低く恫喝する。


「…これ以上、あの忌々しい男を母さんに近づけさせるな」

セフィロスの腕にぶら下げられていたヴィンセントの夕日色の瞳が、無気力さを放棄して呆れたような笑みを浮かべた。

「本音はそれか」
「お前の不甲斐なさが招いたことだろうが」

セフィロスはそっけなく言い、彼のバスローブから手を離す。脱げる寸前のバスローブを直し、ざんばらになった髪に手櫛を入れた
ヴィンセントはゆっくりと相手を見上げた。

 禍々しい狂気はかき消え静謐な空気すらまとうセフィロス。
ニブルヘイムの悲劇以前に「英雄」と呼ばれていた頃の彼は、きっとこのような姿だったのだろう。
そして利害が一致しているとはいえ、彼の行動はまるでヴィンセントをフォローしているかのようにすら見える。

 
ヴィンセントの視線に気付いたセフィロスは、かつて親友たちや後輩のソルジャー1stに向けたものと同質の笑みを浮かべた。
99%の傲慢さに混入する1%の優しさは、意外性も手伝って相手を魅了する。


「せいぜい頑張ることだな、義父さん」

驚いて軽く目を見張るヴィンセントの目の前で、銀髪の美丈夫の姿はかき消えた。






「起きてたの?!」


 
音のしないようにそっとカードキーをスライドさせたルクレツィアは、内側から開いたドアに驚いた。部屋着に着替え髪を後ろで
大雑把に束ねたヴィンセントは、憮然とした表情で想い人を迎える。


「…遅い。もう夜明けだ」
「ごめん。シャルアの部屋で予演会してたら熱が入っちゃって」

部屋の大きな窓の外では夜が白々と明け始めていた。東の空に広がる柔らかな白い光を映して海もゆっくりと目ざめ始める。

「二次会でもしているのかと思った」
「そんな余裕ないわよ。お客さんは早く休んでもらわないといけないしね」

装飾品を外して髪をおろしながら、ルクレツィアは答えた。
 
彼女は嘘をつくのが下手だ。だから今は本当のことを言っているのがわかる。ヴィンセントは全身で安堵のため息をついた。
バスルームに消えた彼女を見送りながら、外に広がる朝焼けのように彼の心も薔薇色に染まり始める。


「私の出番は午後からだから、午前中ちょっと眠っておけば大丈夫かと思って」

 
シャワーの音にまぎれながら喋るルクレツィアの声に、彼は扉のそばに立ったまま耳を傾けた。実はシャルアの部屋でうたた寝
しちゃったのよね、とあくび交じりに彼女は笑う。


『たばかられたな』

 
ヴィンセントの脳裏に昨夜の訪問者の意地の悪い笑顔が浮かんだ。そのくらい言わないとお前には勢いが付くまい、という声まで
聞こえてきそうだ。


「…余計なお世話だ」
「え?何か言った?」

 
バスローブをまとい髪をタオルでまとめたルクレツィアがバスルームから出て来る。いや、と答えながら彼は備え付けの冷蔵庫
からミネラルウォーターを出して彼女に渡した。


「ありがと」

 
ルクレツィアは栓をあけてそのまま口をつけた。美しい外見にも関わらず彼女の行動は時々妙に漢らしい。
先ほどまでは打ちひしがれて一人で座っていた窓辺のソファに今は二人で座り、ヴィンセントは朝焼けを映した明るい色の瞳で彼女
を見つめる。


「今日は、午後からだったな」
「ええそうよ」

 
ミネラルウォーターを一気に飲み干した彼女の手からボトルを受け取り、ヴィンセントはそうかと呟くと目の前のバスローブに包ま
れた身体を抱き上げた。


「何?」
「もう待つのには飽きた」

驚きに目を見開いている彼女に軽く口付け、ヴィンセントはさっさとベッドへと歩みを進める。

「嘘でしょ、眠らせてよ!」
「嫌だ」
「午後から講演だって、わかってるよね?
「わかりたくない」

 
ルクレツィアは頭を抱えた。どうしてこの男は時々手のかかる子供に豹変するのか。
これでは夢の中に出て来るセフィロスと大差はない。おまけに日頃の従順さと打って変わって、いったん言い出すと頑固になる。


「ねえお願い。私にとってどんなに大事なことか知ってるはずでしょ」
「私と研究と、一体どちらが大事なんだ?」
「その台詞は普通女が言うものよ!」

 
ベッドの上で展開される膝詰め談判は終わる気配はない。
二人の痴話喧嘩をよそに、海は昇り始めた朝日をうけてきらきらと眩しく輝いていた。






「そうきましたか」

 シェルクはリーブの言葉に唖然とした。

ルクレツィアは体調を崩したため今日の講演は無理だと、部屋の電話に出たヴィンセントが答えてきたのだという。

「疲れが出ただけだから休めば治るそうなのです。自分がついているから大丈夫だ、とか」

何だか彼にしては随分機嫌がよかったですねえと、苦笑まじりにリーブも答える。シェルクはさもありなんとため息をついた。


「電波塔に登るよりも、手の込んだ意趣返しをするようになりましたね」
「感心している場合か」

腕組みをした妹の頭を軽く小突き、シャルアが種類の異なるため息をつく。

「昨日予演会をやっているから代役は勤まると思うが、これは貸しだからな」
「請求はヴィンセントにお願いしますよ」
「もちろんだ。きっちり取り立ててやる」

 
隻眼の科学者は右手を義手の手のひらに打ちつける。大げさに怖がる振りをしながら、食えない局長はこっそりと笑った。

『私なら、女傑二人に叱られるような真似をわざわざしようとは思わないのですがねぇ』

 
留守番が嫌でぐずったあげくに叱られる小さな子供。星を救った英雄を表現するにはあまりな言葉だが、有態に言ってしまえば
そうなる。


『まあ、それも彼の可愛いところでもあるのですが』

 
WRO職員に呼ばれて歩みはじめながらも、リーブの口端には笑みの残滓が貼り付いていた。







                                                                         2008/11/1
                                                                           syun







50000キリリクをお届けいたします。今回は「モテモテルクレツィア、横恋慕する男の登場、マザコンセフィロス、至上最低に情けないヴィンセント」
というのがお題でした。情けないヴィンさんはいともなめらかに書けてしまったのですが、犠牲になったのが英雄殿です。CCの人間味を残した彼なら
無理やり行けるかも、ということでどうぞアンジール、ジェネシス、ザックスにはほんのちょっぴり優しかった彼をイメージしてお読みくださいませ。
これを書いている途中でセフィ×ヴィンの素敵なサイト様を見つけてぼぼっと煩悩の炎を吹きました(笑)
おかげで一部影響され、あわや英雄がヴィン氏を押し倒しそうな場面が…(笑)脳内では押し倒していたのですが、今回はそういう趣旨ではないので
自粛。何かキリリク独自の設定で話が広がって行きそうです…。英雄の登場も多いですし…。それはそれで何だか楽しみな予感
こんな話ですが、楽しんでいただければ幸いです。エルさま、どうぞご笑納くださいませ。リクエストありがとうございました!


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