Like  a  Helpless  child






「コスタ・デル・ソルで?」
「ああ。魔晄の浪費が一番激しいのがそこだからな」

 
ルクレツィアの問いに、啓発には最適だろうと隻眼の科学者は答えてカップを口に運んだ。
WRO
ではリーブの淹れるコーヒーが一番美味い。本人も席を立ってサーバーをセットするのが気分転換になっているようなので、
誰もその役割を代わろうとはしない。


「二度の戦役で一番被害が少なかったんですよ。ホテルなどの設備がそのまま使えます」

テーブルについた一同にコーヒーを配ったリーブは、自分も席について言葉を続ける。

「それにジュノンが被害を受けた後、船便が一番充実しているのがコスタですからね。ミディールやアイシクルエリアからも参加
しやすいでしょう」

「コスモキャニオンからも、な」

シャルアの相槌にリーブは頷く。

「基調講演を長老ハーゴにお願いしています。ただ、送迎はシドに頼んでありますけどね」

高齢の長老にバス便での大陸横断は無理だ。リーブの手配はぬかりがない。

 星の生命と魔晄について星命学や生物学、自然科学など、幅広い見地からの学会が企画されていた。シンポジストとして、魔晄炉
の建設を拒んだウータイのゴドー・キサラギや、メルトダウンの被害にあったゴンガガの村長も名を連ねている。

 
そして、特別講演はルクレツィア・クレシェントの「星の循環」。
当初依頼を受けたルクレツィアは当惑した。ジェノバプロジェクトで災厄を生み出した自分が、人前で話すことなど赦されるのか。
迷い悩んだ末に辞退しようとした彼女を勇気付けたのはリーブだった。

WRO幹部の多くは元神羅。リーブだけでなく、クラウドもシドもヴィンセントもかつて神羅の禄を食んでいる。そして魔晄エネルギー
の恩恵を享受した人々も、星に対する加害者という点では同列だ。


「あなたの真摯な気持ちはわたしたちがよくわかっています。どうぞ胸を張って参加してください」

誠意に満ちたリーブの言葉と差し伸べられた暖かな手に、ルクレツィアは瞳を潤ませてうなづいた。

「ところで反対運動も予測されます。参加者の安全は守らなくてはなりません」

リーブはそこで言葉を切り、ルクレツィアの隣で黙ってカップを傾けている男に視線を向けた。

「ヴィンセント、頼りにしていますよ」
「…ゴールドソーサーは押さえてある。他は個人レベルの動きだろう」

 
先日ディオと交渉してきたヴィンセントが答える。リーブはコスタの名を上げたが、実は魔晄消費の一番手は巨大な娯楽施設
ゴールドソーサーだ。手強い抵抗勢力になることが確実なここに、リーブはケット・シーとヴィンセントを送り込んだ。

 
元タークスはきっちりと任務を全うし、魔晄使用の10%削減と反対運動の自粛を取り付けてきている。
ディオにこの約束をさせるために、ヴィンセントは「気が向いたらバトルスクウェアに参加してもいい」という交換条件をちらつかせた。
彼にしてみればWROの訓練所と違って遠慮なく戦え、しかも商品までもらえるのは好都合だ。
ディオにとってみても、滅多に捕まえられない目玉商品を逃がす手はない。更に「環境や星にもやさしい娯楽施設」というキャッチ
フレーズは、二度の戦役のあと人々の心に響きやすい。

 
リーブにとっては、今後クラウドを投入した際に15%、シドを投入した際に20%と、魔晄使用削減の交渉カードが拡大したことに
なる。本人たちには事後承諾だが。

 
様々な思惑や胸算用を秘めながら、ゴールドソーサーとWROはいとも友好的な握手を交わしたのだった。





 
コスタ・デル・ソルのホテルを借り切って、「星の命と魔晄」学会は大規模に開催された。
滅多に谷の外に出ないコスモキャニオンの長老が来るという噂はあっという間に広まり、予想以上の人々が集まった。
 
会議場に収容しきれないのを見て、シェルクは別室にモニター画面を設置して聴講できるように手配した。
警備担当の彼女はホテル内に張り巡らせた監視装置の管理の片手間に、面倒な作業をやってのける。


「思った以上に人が集まりましたね」

 
モニター画面から目を離さないまま、シェルクは部屋に入ってきたシャルアに話しかけた。コンピュータに張り付いたままの妹に
グレープフルーツジュースを差し入れに来た科学者は、軽く肩をすくめる。


「単なる野次馬も多いがな。ま、まずは関心を持ってもらうことが大事だ」
WROの部隊も、よく警備をしていると思います」

シャルアが見上げた画面のひとつをヴィンセントの姿が横切っていく。

「敏腕のSPがいるからな。もう何人か捕まえたらしいぞ」

 
後先考えず魔晄の使用を主張する者、WROに反感を持つ者、単なる愉快犯。思想は人それぞれ勝手だが、実力行使すれば
犯罪者だ。破壊行為に及ぼうとした人間は闇から現われた影に捕縛された。まるでよく訓練された捜査犬のように、ヴィンセントは
ゲートチェックをすりぬけて武器を持ち込んだ者を見つけ出し、隊員たちに引き渡している。


「珍しく積極的ですね」
「そりゃもちろん、『彼女』の安全がかかっているからだろう」

シャルアは用意されていた紙パックのアイスコーヒーを飲み干して笑う。
 
能力の出し惜しみの激しいヴィンセントも、ルクレツィアが関わると態度を変える。なんと言っても、炎上するカームでWROへの
協力を渋ったくせに、彼女が絡んだ話と知った途端ディープグラウンドにまでさっさと出かけていった男だ。

 
リーブはその辺りをよく心得ていて、ヴィンセントの協力を引き出したい時には巧妙にルクレツィアを間に引き入れる。

「ある意味、非常に分かりやすい人物とも言えますが」
「ああ。我々としては助かるけどな」

 
言葉の合間に安堵の吐息を漏らした姉を、シェルクはモニタリング画面から目を離して振り返る。
学会長としてテロリストの標的にもなりやすいシャルアも、きっとヴィンセントの護衛対象に入っているのだろう。


「…お姉ちゃんも、気をつけて」
「大丈夫。私も伊達に闘ってきたわけじゃない」

 
隻眼の科学者はパンツスーツの内ポケットに忍ばせた銃を叩いて見せ、不敵な笑顔を見せる。
信頼と心配が混在した表情で画面に向き直った妹の頭をひと撫でし、シャルアは再び会場へ向かった。





 会議場前の広いホワイエでは、ウェルカムドリンクが振舞われていた。
ホテルの従業員に混ざって、主催者であるWROの職員たちは愛想のよい笑顔で遠来の客を迎えている。


 
ディープグラウンドソルジャーの襲撃とオメガの誕生を知らぬ者はいない。はるか以前からオメガとカオスの論文を発表し、しかも
ジェノバの影響で不老不死になったルクレツィアの存在は大きな話題を呼んだ。

長老ハーゴとともに学会の二枚看板になってしまった彼女の周りには、大勢の参加者が群がっている。
 
やや緊張した面持ちのルクレツィアのそばにはリーブがぴったりと寄り添い、挨拶に来る客たちを紹介していた。
中には彼女に好意的ではない者もいたが、リーブの誘導で他の参加者に引き合わされ、別の話題で盛り上がっている。

「参加された方々には、みなさん気持ちよく過ごしていただきたいですからね」

 
彼の繊細な配慮に感謝するルクレツィアに、リーブは鷹揚な笑みを浮かべて答えた。「みなさん」という言葉で彼女だけでなく、
参加者全体を考えているので気にしないようにとほのめかしている。

 
大きな組織を統率する男の包容力に、やっとルクレツィアの唇に笑みが浮かんだ。局長に護られているという安心感が、彼女の
肩から力を抜かせてくれる。


「ルクレツィア博士、長老ハーゴが到着されたそうです。ご挨拶に行きませんか」
「はい」
 
ようやくいつもどおりの美しい笑顔に戻った彼女を見て、リーブの表情も和む。彼は如才ない態度で客の群れをかきわけながら、
控え室になっている応接室へとルクレツィアをエスコートしていった。




「久しぶりじゃの、ルクレツィア博士。元気にしとったか?」

「ええ、ありがとうございます。長老もお元気そうで何よりですわ」

 
ルクレツィアは小柄な長老の挨拶に上半身をかがめて答えた。ハーゴは彼女の両肩を軽く抱きしめて相好を崩す。

「美人のハグはいいもんじゃて。生きる活力が沸いてくるのぉ」

 
コスモキャニオンの長老にセクハラなどという言葉は通用しない。調子のよい老人の言葉に、居合わせた一同がなごやかな笑い
に包まれた。

 
シドの飛空艇に同乗してきたコスモキャニオンの学者たちが、先を争ってルクレツィアに自己紹介し握手を求める。
その様子を楽しげに見守る、鳶色の髪に上品な口髭を蓄えた40代半ばの男性がいた。
ハーゴは彼をそばに呼び寄せてルクレツィアに引き合わせた。


「このお人はグラント博士と言うての。前はミッドガルで自然科学をやっておった。あんたの熱烈なファンだそうじゃ」
「お会いできて光栄です。クレシェント博士」

 
グラントはハーゴの軽口を否定するでもなく、嬉しそうにルクレツィアに握手を求めた。戸惑う彼女に崇拝の眼差しを向けて、静か
に語りかける。


「『星の循環』を始めて知ったのは、私がまだ学生のころでした。大学のゼミで論文を読ませていただきました」
「それは私の論文が妄想扱いされていた頃ね」

 
ルクレツィアは優しい口調で答えた。あの頃、彼女の学説を支持したのはガスト博士と、共にカオス因子を発見したグリモア博士
だけ。過去の思い出は必ずしも甘美なものではない。だが、崇拝者の熱弁はさめる様子はなかった。


「教授の意見は私には関係ありません。なんと壮大でエキサイティングな命のドラマだろうと心が震えました」

 
リーブよりも年長であろう彼が少年のように頬を紅潮させて語る姿に、ルクレツィアは微笑みを浮かべた。現在、オメガとカオスの
存在を否定するものはいない。しかし当時は妄想と酷評されていた自分の論文を、支持してくれた人がいたとは。


「ありがとう、グラント博士。そのように言っていただけて、本当にうれしいです」
「とんでもない。こうして直接お話できるなど、こちらこそ身にあまる幸せですよ」

 
彼はまた少年のようにはにかんだ。外見は20代後半のルクレツィアだが、実年齢はグラントより上になる。彼にとっては学生の
頃から憧れていた雲の上の存在だ。


「よろしければ、ランチミーティングをご一緒させていただけますか?」
「ええ、喜んで」
「お、グラント博士。ぬけがけは感心せんな。ワシも一緒じゃ」
「もちろんですとも」

 
科学者たちは勝手に意気投合し、部外者には理解できない共通の話題で大いに盛り上がる。



 部屋の入り口近くにしつらえられた椅子にどっかりと座ったシドと、護衛らしくドアのそばを離れないヴィンセントに、リーブが
ねぎらいの言葉をかけた。


「お疲れさまでした。コスモキャニオンの長老をお連れするのですから、気を遣ったでしょう」
「まあな。元気なじいさまで艦内をあっちこっち見たがってよ。クルーが手を焼いてたぜ」

 ブーゲンのじっさまもそうだったよなとシドは片頬で笑い、となりに突っ立っている長身の男を肘で小突く。

「あとは任せたぜ。俺より年が近いんだ、年寄りのキモチはよっくわかるだろ」
「………」

反応しないヴィンセントに、シドとリーブは疑問符つきの視線を交わす。

「おい、ヴィン?」

再度呼ばれて、ヴィンセントはようやく気付いたようにシドを見下ろした。

「何だ」
「何だじゃねえだろ。おめぇ、人の話聞いてねぇな」
「何か、気になることでも?」

黙ったままの彼の視線を辿り、二人はルクレツィアと親しく談笑している鳶色の髪の男に到達した。

「コスモキャニオンから乗っけてきた科学者の一人だな」
「以前、ミッドガルで自然科学を教えていたと聞いています。神羅の方針に疑問を感じてコスモキャニオンに移ったとか」

 
参加者の名簿に一通り目を通しているリーブが、顎をつまんで記憶のページをめくる。長老のお膝元で魔晄使用制限に反対する
ものはいないはずだが、年には念を入れたほうがいい。


「身元は確かなはずです。もう一度調べましょうか」
「…いや、それには及ばない」

 
視線をグラントから外して、心持ちトーンの落ちた声でヴィンセントが答える。ちょうど時を同じくして科学者たちが会議室へ移動
すべくソファから立ち上がった。ルクレツィアもハーゴやグラントと談笑しながら出口へと歩いてくる。

 
ドアのそばで立ち話をしていたリーブたちは彼らを見送るような形になった。

「『星に愛された者』よ。今日はまた物騒ないでたちじゃの」

ヴィンセントの前で立ち止まった長老ハーゴは、やや咎めるような眼差しで彼を見上げた。

「いくらワシらのためとは言え、むやみに命を星に還してはならんぞ」

 
ヴィンセントに対して孫の悪戯を注意するような口が利けるのは、コスモキャニオンの長老しかいない。
苦笑した彼はトリプルリボルバーに装着したマテリアを長老に示した。この銃で人間を撃てばほとんど原型を留めない肉片になって
しまう。


「銃は使っていない。大部分は眠らせてWROに引き渡している」
「そうか。それならよかろう。万事穏便にな」

 
納得したハーゴはヴィンセントの腕をぽんぽんと叩き、WRO職員に先導されて部屋を後にする。それを見送った夕日色の瞳は、
ずっと話すこともできずにいた人の姿を映し出した。

 
だが、彼女の関心はすっかり学会の方へ向けられている。取り巻いた科学者たちと熱心に交わす難解な専門用語。
そこには門外漢の入り込む余地などない。


「ごめんヴィンセント、ランチはダメなの。夜は一緒に食べるから。ね?」
「……わかった」

 
やや落胆した様子の彼をなだめるようにルクレツィアは軽く肩に触れる。気を取り直したヴィンセントが顔をあげると、隣に立った男
が嬉しそうに握手を求めてきた。


「あなたが『星に愛された者』ですね。お会いできて嬉しく思います」

 
グラントは感激を抑えきれず、空気が読めないようだ。カオスを身に宿したあなたがいてくれたからこそ、クレシェント博士の理論
が実証された。星とその命について今まで以上に深い考察が得られた。そのことについていくら感謝しても足りないと、興奮気味に
語る。

 
しかしそれはヴィンセントにとってはやや見当外れの話だ。そもそも、この男のせいでランチの約束が反故になったのが気に入ら
ない。

 彼は差し伸べられた手を冷淡に見下ろし、軽く目礼をするとさっさと部屋を出て行った。グラントは鼻白み、差し出した自分の手に
視線を落としてからルクレツィアを振り返った。


「…何か、気に障ることを言ってしまいましたか?」
「いえ、彼はその、人見知りがひどいの。気にしないでください」

客に無礼すれすれの態度を取ったヴィンセントに腹を立てながら、ルクレツィアはその場を取り繕う。

「銃を使うヤツが利き手を差し出すなんてこたぁ、滅多にないぜ」

 
室内に人が少なくなったのを幸いにタバコに火をつけたシドが、のんびりと煙を吐き出しながら援護した。瞬きをしたグラントは
苦笑しながら再度見下ろした手のひらを握り締める。


「そう、でしたか。それは知らぬこととはいえ失礼しました」

彼の視線はそばで気遣わしげに見つめるルクレツィアに向けられた。

「彼は、私たち科学者とは違う世界で生きているのですね」

 
何気なくかけられたその言葉にうなづいてしまうことは、ヴィンセントに対する重大な裏切り。ルクレツィアの表情を視界に入れて
いたシドは、リーブに向かって片方の眉を高々と上げてみせた。WRO局長は小さく咳払いをして口を開く。


「さあ、そろそろ時間です。会議場の方へまいりましょうか」

リーブの落ち着いた声がその場の空気を一変させた。呪縛が解けたようにルクレツィアは局長に向かってうなづくとグラントや他の
科学者とともに部屋を後にする。

 残されたシドとリーブはなんともいえぬ表情で視線を合わせたが、ほぼ同時に小さくふき出した。

「だいぶ、へそが曲がってんな」
「ええ、困りましたねぇ」

 日頃あまり感情を表さない無口な仲間のむくれた様子に同情もするが、それよりも可笑しさの方が先に立つ。

「面白くなってきたじゃねえか。ここで見届けたいとこだがそうもいかねえ。おめぇ後できっちり報告しろや」

 
次の輸送予定がつまっているシドは灰皿にタバコを押し付けて立ち上がった。コスモキャニオンからの賓客の輸送は、彼の過密
スケジュールの中に無理やりねじ込まれたものだ。


「忙しいのに無理を言ってすみませんでした」
「何、気にすんな」

元々金を出してるのはお前だろ、と軽口を叩いてシドは部屋を出て行きかけ、ひょいと振り返った。

「大喧嘩になりそうだったら呼び戻せよ」
「まさか。彼らのことです。そんな風にはなりませんよ」

どちらかというと一方的にへこんだヴィンセントがどこかに引きこもる、という方がありえる話だ。だが、できれば学会が終わってから
にしてもらいたい。

 
気心の知れた戦友同士は、気の毒な仲間の不運を肴にして笑いながら別れを告げた。




 応接室を出たヴィンセントは無言のまま早足で廊下を歩いている。

常人離れした彼の聴覚は、グラントが不用意に漏らした言葉を捕らえていた。

『我々科学者とは別の世界に生きる者』。

彼とルクレツィアの間に溝を穿ち、白衣をまとわぬ者として彼を排斥する言葉。それは過去のトラウマを否応なく刺激する。

『部外者は口を出さんでもらおうか』

 
不意に思い出したくもない声が耳に甦り、ヴィンセントは軽く頭を振った。
科学者という職種そのものが障壁となって、彼とルクレツィアの間に立ちはだかるのを何度となく経験した。ある時は彼を遠ざけよう
とする彼女自身によって。またある時は、ジェノバプロジェクトに疑問を呈した彼を封じ込めようとする「彼ら」によって。


『またこうして私は彼女を失うのか…』

別の世界に生きる者。部外者。耳の奥に「あなたには関係ない」というルクレツィアの冷たい声がリフレインする。
口の中が乾き、喉が締め付けられるようだ。
 
拳を握り締めて大股で歩いていく姿を見た者は、彼が怒りを抑えていると思っただろう。だが実際に彼が抱えていたのは、今にも
泣き出しそうな胸の痛みだった。



 無表情に感情をエスカレートさせつつあったヴィンセントを、携帯の着信音が現実に引き戻す。

『ヴィンセント、講演が始まります。会議場で待機をお願いします』

 
ホテル内に張り巡らせた監視ネットワークを統括しているシェルクだった。
おそらく、モニターに映ったヴィンセントが会場とは逆方向に向かっているのを見て、連絡を入れてきたのだろう。冷静な彼女の声と
口調は、ヴィンセントの感情を落ち着かせるのに一役買った。


「……わかった」
『どうかしたのですか?予定の行動と大分違っていますが』
「いや。何でもない」

事務連絡の中にも気遣いを含ませるシェルクに短く答えて彼は通話を切った。小さく息を吐き出しながら携帯をポケットにねじ込む。
 
少々考えすぎだ。ルクレツィアが何かに夢中になると回りが見えなくなるのもいつものこと。今は学会のことだけを考えていたいの
だろう。かつて酷評された論文の支持者に逢えば喜ぶのも当然だ。

たかだかランチをキャンセルされた程度で、むきになることもあるまい。
 
ヴィンセントは指先を愛用の銃に触れさせた。ひんやりとした感触は彼に冷静さを取り戻させてくれる。
今すべきことはこのホテルを護ること。課せられたミッションを自分に言い聞かせ、ヴィンセントは会議場へと向かった。



 長老ハーゴの講演は好評を博した。昼食休憩を挟んで午後のポスターセッションとシンポジウムも無事終了。
大勢集まった参加者たちは、自宅や宿泊先へと帰っていく。それでも相当数が宿泊客としてホテルに残った。

「お疲れさまでした。とりあえず初日は終了です」

 
リーブはいつもなら自らが淹れるコーヒーをホテルに頼んでサービスさせた。一日が終わり、シェルクが詰めていたコンピュータ
ルームで、ミーティングが開かれていた。


「参加人数は約2000人。中には来場してすぐに帰った者もいます」
「それは冷やかしでしょうね」
「ゲートで危険物を押収された者は23人。会場内で捕らえられた者が7人です。いずれにしても実害はありません」

シェルクは淡々と数字を報告していく。
 
捕らえられた7名は全てヴィンセントにスリプルをかけられ、WROコスタ支部に送られている。目が覚めたころには学会は終了し、
参加者はとっくに帰宅しているだろう。意気込んで反対運動に来た割にはたっぷりと眠ってしまい、空腹のところに朝食をふるまって
もらって帰るという、非常にばつの悪い結末が彼らを待っている。


「この分では、懇親会及び夜間の警備は予定していたWRO部隊のみで大丈夫と思います」
「…懇親会?」

 
席につかず、壁に背をもたせかけたまま腕を組んで報告を聞いていたヴィンセントが、シェルクに視線を向ける。

「ええ。20時より展望レストランで長老ハーゴを囲んだ懇親会が予定されています。…知らないのですか?」
「聞いていない」
「あの、ルクレツィア博士は当初参加予定ではなかったので、声をかけなかったのですよ」
「彼女も参加するのか」

内包する落嘆と不機嫌を最小限度まで圧縮し、平静を装った声。

「はい。シャルアが是非にと勧めて、その気になってくれたようです」

 
可笑しさを押し殺しながら、リーブは巧妙に固有名詞をすりかえる。グラント博士の名を彼の前で口にすることは極力避けたい。
命を狩り取るファイナルウェポンを召還できる男を、不必要に刺激してはならないのだ。

『人の恋路を邪魔する奴は、カオスに狩られて死んじまえ、というところでしょうかね?』
リーブはエッジの子供たちの間で流行している悪口をこっそり思い出してみる。

「そうか…」

心なしか沈んだ声でヴィンセントはつぶやき、壁から背を離すとドアに向かって歩き出した。

「ヴィンセント、夕食を一緒にいかがですか?ここのパブは良いワインを置いていますよ」
「いや、いい」

 
もともと猫背気味の彼の背中が、いつもより丸くなっているようだった。ミーティングに参加していた警備部隊長たちの敬礼を受け
ながら、ヴィンセントは部屋を出て行く。


 
各隊に簡単な指示の確認をするとリーブはミーティングを解散させた。小さな咳払いに振り返ると、シェルクが妙に上機嫌な局長
を軽く睨んでいる。


「ヴィンセントを苛めすぎです」
「おや、人聞きの悪い。私が何をしたというんです?」

温和な笑みを浮かべながらリーブはとぼけてみせる。

「彼の心の中は涙で一杯でした。あんなに悲しんでいるなど珍しいことです」

 
シェルクはため息をついて、小型のPCを腕に抱えた。
一度シンクロしているヴィンセントの精神には装置がなくともダイブすることができる。
いつもは身体の接触が必要だが、今日のように強烈な感情を抱えている彼のそばにいると、いやでも引き摺られてしまう。


「今頃、部屋で泣いているかもしれません」
「まさか」

リーブはシェルクの心配に笑って答えた。

「明日で会は終わります。そうすれば本部に戻って今まで通り二人で過ごせますよ」

 
何より、ルクレツィア博士があんなに生き生きと楽しそうなのですから、ヴィンセントにとっても嬉しいはずですとリーブは語る。
たまにはちょっと刺激があった方が倦怠期に陥らずに済むのではないですか、と。


『局長が考えているほど、彼は大人ではないのですけれどね…』

 
明日は、彼を計算に入れずに警備の配置を考えることになるだろう。いつかのように、電波塔に登ってホテルの通信機能を麻痺
させるなどという行動に出なければいいのだが。

 
PCを抱えなおしながら、シェルクは今日何回目かになるため息をついた。




 カードキーでドアを開けた室内は、既に明かりが灯っていた。

「…ルクレツィア?」
「ヴィンセント!ちょうどいいところに来てくれたわ」

鏡の前で首に巻いたネックレスの止め具と格闘していたルクレツィアが、彼を迎える。

「懇親会に行くんじゃなかったのか」
「そうなの。でもこれがからんじゃって…。ちょっと見てくれない?」

 
重いため息をつきながら、ヴィンセントはのろのろと彼女の後ろに回った。繊細なチェーンがからまり、止め具がねじれているのを
直してつけなおしてやる。

 
髪をきれいにアップに結い上げた彼女が着ているのは、クリームイエローのシフォンのドレス。その色は彼女の瞳と髪の色をひき
たてる。本当なら彼との夕食に着ていくはずだった。つけ直したらしい香水がふわりと香る。

本当なら…。
ヴィンセントは後ろからルクレツィアを抱きしめ、その肩に頬を寄せた。彼女は戸惑い、細い指先を彼の長髪にすべらせる。

「ヴィンセント?何?」

行かないで。ここにいて欲しい。置いていかれるのは嫌だ。

無言の訴えは、しかし彼女を困らせると分かっているから声にはなりえない。

「ごめんね、急に参加するって決めたから。お昼もキャンセルしちゃったし、怒ってるんでしょ?」
「…いや」

怒ってはいない。寂しいだけだ。歩み去るきみの背中を見たくない。他の男と談笑するきみを、見たくない…。

喉まで出かかる言葉を飲み下し、ヴィンセントは平静を装う。

「滅多にないことだ。楽しんで来ればいい」
「ありがと」

 
ルクレツィアは彼の腕の中でくるりと身体の向きを変えた。上気した頬に輝きを増している瞳は、彼女が興奮し楽しんでいることを
伝えている。

彼女が幸せならば、私は…
 
強張っていたヴィンセントの表情がわずかに緩む。優しく頬に触れたルクレツィアの手に導かれるままに彼が背を屈めた途端、
無粋なドアホーンが鳴った。


「大変、時間過ぎてるんだった!」

彼の頬から手を離し小鳥のように身を翻してバッグを掴むと、ルクレツィアはドアに向かう。

「夕食は局長と食べてね。あなたのことお願いしてあるから。遅くなるから先に寝てて!」

 
恐るべき早口で言いたいことを伝えると、彼の答えを待たずに彼女はドアを開けた。
廊下の人物を見てヴィンセントの瞳が険しくなる。


ディナージャケットを身につけた、コスモキャニオンの自然科学者。

「クレシェント博士、お迎えにあがりました」
「ごめんなさい。お待たせしちゃって」
「いいえ。美しい方をお待ちする時間は、その1分1秒すらも喜びに溢れているものですよ」

グラントはそこでヴィンセントの姿に気付き、笑みを深めて会釈した。

「ヴァレンタインさん、クレシェント博士をお借りいたします」

 
世慣れた大人の男らしく、彼はたじろぐこともなくルクレツィアに腕を差し出した。わずかに躊躇した彼女だったが、優雅に笑って
その腕を取る。


「じゃ、行ってくるわね」

彼女の言葉とともに、ドアが閉められた。

動くことも出来ずに立ち尽くしたまま、ヴィンセントはきっと今の自分はひどい間抜け面をしているのだろうと思った。







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