スイートプラシーボ





「ええと、魔晄濃度測定器と、試薬が3種類と、スライドガラス。以上でよろしかったですか」
「はい」                                                                                                            
「あと魔晄溶液は別便で届くことになってます」
「わかりました。ご苦労様」

 田舎にあるニブルヘイムでは研究に使う特殊な資材が手に入らない。
本社から回してもらうかミッドガルの企業と取引するため、定期的に物資輸送の便がミッドガルとニブルヘイムを往復している。
自然に何人かの担当者とは顔見知りになるが、今日は大型の機械を搬入するために新顔の男が台車を押して一緒に来ていた。
 

 こちらにサインをという出入りの業者と科学部門のスタッフのやりとりを、ヴィンセントはそばで見守っていた。
ジェノバプロジェクトの機密保持と、関係者の護衛が彼の任務。
神羅屋敷に外部の者が出入りする場合には必ず立ち会うのも仕事の
うちだ。
 彼がタークスの一員であることは神羅の職員には周知の事実だが、外部の者にまで名乗る必要はない。スーツ姿で検品などに立ち
会うヴィンセントに首を傾げる者もいたが、容姿に恵まれた彼が愛想よく微笑んでみせると頬を緩めて警戒を解く。
神羅屋敷に出入りする者の間では、ヴィンセントはきれいで感じの良い経理、もしくは庶務の担当者ということになっていた。
実際、平和なニブルヘイムで暇を持て余している彼は、セキュリティチェックのついでに雑用一般を引き受けることもあった。



「支払いはいつもの振込み先で?」
「はい。毎度ありがとうございます!」

経理担当のふりをしながら実務もこなすヴィンセントは、台車を押していた男の視線を頬に感じて目を上げる。

「何か…?」
「あ、いえ、何でもないです。失礼しました」

男は慌てたように帽子を目深にかぶり直した。経理さんに見惚れてたんだろうと業者にからかわれ、男は俯いたまま口の中でもぐもぐ
と反論する。
 その時慌しい足音がして警備長がドアを開き、ヴィンセントを手招きした。


「すみません。私はこれで」

警備長の漂わせる緊迫感を相殺するようにのんびりとした笑顔を見せて彼は業者2人とスタッフに会釈をし、するりと廊下へ滑り出る。
すかさず警備長が彼の耳元で囁いた。


「不審者が屋敷周囲をうろついています。侵入経路を探している模様です」
「人数は」
「正面付近に2名。裏手の出入り口付近に2名」
「出入り口を封鎖。侵入して来るなら情報源1人を残して射殺しろ。中にいる客も外へ出すな」
「はっ」
「ルクレツィア博士のラボへ2名行け。私が行くまで護衛し待機しろ」

 ヴィンセントの指揮下にいる警備長は敬礼して走り去った。
プロジェクトの重要関係者のうちガストと宝条は本社の会議に出張中。屋敷に残っているVIPはルクレツィア一人だ。
ヴィンセントはちらりと今出てきた扉に視線を投げ、屋敷全体のモニターができる監視室へと向かった。





 わざと見せてやった隙に警戒したのか予想よりも待ち時間は長かった。
だが痺れを切らしたかリスクを承知で食いついたか、相手がようやく動きを見せる。ガスト博士の研究室に通じる通路でヴィンセントは
侵入者の背後から声をかけた。


「トイレでも探しているのか」

 帽子を目深に被り、運送業者の制服を着た男はその姿に似合わぬ身のこなしで振り返る。
オートマチック拳銃を手にして敵意をむき出しにする相手に、ヴィンセントは両手を空にしたままゆっくりと歩み寄った。


「悪いが、ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
「…タークスが、何故こんな所にいる?」

男はヴィンセントに銃口を向けたままじりじりと後ずさる。ヴィンセントは眉を軽く上げた。

「それを知っているお前も、ただの運送業者ではないな」
「タークスオブタークスがミッドガルから消えてここにいるなら、ニブルヘイムの機密はそれだけでかいということだ」
「買いかぶるな。仕事でドジ踏んで左遷されただけだ」

からかうように軽口を叩くヴィンセントを男は睨みつける。

「…プロジェクトの資料を渡せ」
「何のプロジェクトだ?」
「とぼけるな。ここはジェノバプロジェクトの拠点のひとつだろう」
「さあ。研究の内容までは関知しない」

一見丸腰のままのらりくらりと身をかわす相手に、男は銃を向けて詰め寄った。

「ガストはバノーラよりもこっちにカンヅメになってる。宝条に何か指示してるんじゃないのか」
「だから、門外漢にわかるはずがない」
「…研究室を開けろ。お前に分かる限りでいい。データを渡せ。そのキレイな面の真ん中に穴があくぞ」

部屋へ案内させようとそばへ寄った男に、ヴィンセントは口の端を上げる。

「警告しておこう。銃を手にしていなくともタークスの至近距離に寄るのは危険だ」

 言葉とほぼ同時。
引き金にかけた指に男が力を入れるよりもコンマ何秒か早く、鋭い手刀が運送業者の制服を着た腕に叩き込まれた。衝撃で角度の
変わった銃弾はヴィンセントの顔ではなく天井近い壁に穴をあける。
力のぬけた男の手から落ちた銃が廊下を滑って行きそうなところを足で止め、ヴィンセントは殺気を感じて身を沈めた。
左肩に軽い衝撃を感じたが戦闘にそれほど支障はない。
身を沈めた姿勢から相手を蹴り飛ばし、銃を拾い上げると、大きくバランスを崩した両手のひらと片方の大腿を次々に撃ち抜く。


「いい銃だな。手に馴染んで使いやすい」

取り上げた銃は神羅製のクイックシルバー。タークスの標準装備としても使われている。
ヴィンセントは手足から血を流して起き上がれずにいる男のそばに片膝をついた。


「身内同士の腹の探りあいはみっともないぞ」
「知るか。秘密主義はニブルだろうが」
「必要な情報は本社会議で交換し検討されている。そのためのダブルプロジェクトだ」

門外漢だから何も知らないと言っていた口でヴィンセントはしれっと言ってのける。手玉に取られた男は歯噛みした。

「だったら出し惜しみしないでデータを出せよ」
「勘違いするな」

ヴィンセントは夕日色の瞳をすっと細めた。

「データを出す先は本社だ。ホランダーじゃない」

依頼主を言い当てられて男は黙り込む。両手と腿の銃創がより一層痛みを増した。

「それに、私の仕事に手を出す者は誰であろうと容赦はしない。情報源は一人確保できたしな」

うすく笑んだ美貌に男はぞっとする。妖気とも言いたくなるような相手の静かな気魄に圧倒され、器の違いを思い知る。
何の気負いもなく告げられた仲間の死刑宣告に反論もできず、ただ無力に納得してしまうことしかできない。恐らく彼のターゲットに
なった仲間は助からないだろう。


「…身内同士だと言っただろう。それでもか」

身勝手と知りつつも助命嘆願めいた言葉が口から漏れる。それにも目の前のタークスは表情を変えなかった。

「武器を手に私の前に立つ相手には、それにふさわしい対応をするだけだ」

 手刀を受けながら力を振り絞って毒矢を放った男は、制服の左胸を血に染めながら平然としている相手に表情を歪める。
猛毒を塗った先端が心臓に届きさえすれば、あとは全身に毒が回るのを待つだけでいい。
今回は生憎かわされたが胸の筋肉に刺さっているので、4,50分もすればじわじわと効いてくるだろう。
スパイとして潜入した先で今までも何人となくこれで屠った自信のある男は、自分の矜持をかろうじて取り戻し歪んだ笑みを浮かべた。

両手を撃たれ、脚も封じられて反撃も逃亡もできない状態にされたのは相手が悪すぎたせいだ。だが自分も一方的に敗北したわけ
ではない。


「ふん、タークスオブタークスに一矢報いてやったぜ」
「ああ、これか」

ヴィンセントは胸に刺さったままの矢を途中から折り捨てる。

「毒には耐性があるからあまり気にしなかった」

 唖然とする男を蹴転がして武器弾薬をすべて取り上げ、ヴィンセントはクイックシルバーのカートリッジを交換する。
侵入してきた邪魔者の掃除をするのに自分の武器を使う気はない。経理のふりをしていたら本当にケチになったと笑いながら彼が立ち
上がるのと同時に、拘束具を手にした警備兵が2名廊下を走ってきた。


「あとでゆっくり話を聞かせてもらう。それまでおとなしく寝ていろ」

 男の目の前に落ちていた矢羽を手入れのいい革靴が踏みつけ、遠ざかる。
悔し紛れに罵声を浴びせるしか術のない男を、警備兵たちが容赦なく取り押さえた。




 通常は物資などを搬入する地下の出入り口から侵入を試みていた者を3名片付け、ヴィンセントは正面玄関へ回った。
そこでも警備兵と侵入者との間で銃撃戦が繰り広げられている。


「数が増えています。裏口の2名は射殺しましたが、正面は5名になりました」

ドアの陰に身を寄せていた警備長は隣に来たヴィンセントに早口で報告する。

「当方の被害はまだありませんが、やや押され気味です」
「…射撃がヘタすぎだ」
「申し訳ありません」

射撃の天才に言われては何も言い返せない。肩を落とした警備長はタークスの制服の色が一部変わっているのに気付いた。

「お怪我を?」
「かすり傷」

 ヴィンセントは涼しい顔で言い切るが、服の半分は黒く染まり血の匂いも鼻につく。折れた矢と思しきものがまだ胸に刺さったままだ。
白皙の肌がいつもよりほんのりと紅潮しているのは熱が出ているからではないのか。

治療を勧めようとした警備長は、仲間の「来るぞ!」という叫びに口を閉ざし銃を構えた。
 神羅屋敷の重厚な扉の鍵を破壊し、わずかに開いた隙間からショットガンとそれを構える者の顔が覗く。
バラバラと兵の持つ自動小銃の銃声が響く中、クイックシルバーの銃声が1発響き、ショットガンが床に転がった。
続いて駆け込んでこようとした侵入者も、ドアから1,2歩入ったところで防具のない喉を撃ちぬかれて絶命する。

勢いづいた警備兵達は散開しながら外へ突撃し、援護に回っていた残りの3名をようやく殲滅させた。

「屋敷周囲をもう一度巡視しろ。被害状況を確認とともに不審者がいれば身柄を確保」
「はっ!」

兵たちはヴィンセントの命令に一斉に散る。その様子を見渡した彼の瞳が一点で止まり、形のよい眉根が寄せられた。

「…外に出すなといったはずだが?」
「は?…あ!」

 警備長もヴィンセントの視線を追い、部屋に閉じ込めていたはずの業者が転がるように走っていくのに気付いた。
目標は物資を運んできたトレーラー。どさくさにまぎれて逃亡するつもりだろう。


「車を回して来い!」
「はっ!」

 命令すると同時にヴィンセントは全力疾走でターゲットを追った。
タークス一のスピードを誇る彼は、脚を使った追跡で獲物を逃したことはない。距離は離れていたが、恐怖と疲労で息切れした業者が
車の鍵を探してもたついているところに追いつき、襟首をつかんで引き倒した。


「うわ、あああ! してない、何もしてない!殺さないでくれぇ!」
「何も、してないなら、何故、逃げた」

 身体を丸め頭を抱えて泣き声を上げる業者を問い詰めながら、ヴィンセントは息を整えた。
全力で追いはしたがこの短距離で息が上がるのは、多少なりとも毒の影響が出始めているのだろう。
聞き覚えのある声に薄目を開けた業者は、ほっとしたようにヴィンセントにすがりついた。


「いつもの経理さんじゃないですか!助けてくださいよ、お宅の警備員は荒っぽくて怖くて命からがら逃げ出したんですから」
「逃げるから怪しまれるんです」
「そんなこと言ったって怖くて、あら?怪我なさってるんですか?」

すがりついたヴィンセントの服が血に染まっているのに気付いて、業者はぎょっとしたように身を離す。
ヴィンセントは左胸に手を当てて痛そうに顔をしかめてみせる。


「あなたが手引きした侵入者にやられました」
「手引きなんかしてませんったら!私も騙されたんです。本当です!」

 錯乱寸前の業者は、「ただの経理担当」が負傷したまま自分に追いつき、片手で地面に引き倒したことに疑問を感じる余裕がない。
車がそばに停まり、警備長が降りてきたのを意識しながらヴィンセントは困ったような笑顔を作る。


「私もあなたを信じたい。でもおっしゃるとおり、うちの警備は気が荒いので説得するのが大変なんです」
「そこを何とか!」
「とりあえずは一緒に来てください。何とかとりなしてみます」

 ヴィンセントに視線で合図された警備長は荒々しく業者を引き起こす。情けない悲鳴を上げながら荷台に放り込まれる彼は必死に
経理さん経理さんとヴィンセントを呼び続けていた。


「まだ、経理さん、ですか」
「その方が都合がいい。タークスがニブルヘイムにいると騒がれるのは面倒だ」

正面玄関から物資搬入口へ迂回する車の中で、警備長はヴィンセントに問いかける。

「ヤツは黒だと?」
「いや、おそらく白だろう。だがヤツの会社にもスパイ容疑がかかったことを伝えて揺さぶりをかける」
「叩けばほこりが出そうですか」

車窓を開け熱っぽい額に風を受けて涼んでいるヴィンセントの横顔を、警備長はちらりと盗み見た。美しきタークスはかったるそうに
首を振る。


「恩を着せて、価格交渉を有利にしようと思ってる」
「これはこれは」
「経理の真似事をしているうちに、倹約癖がついた」
「…予算については、本社とお話すればよろしいのでは?」
「本社とも交渉する。ヤツに値引きもさせる。訓練用の銃と弾薬をたっぷり仕入れてやる」

淡々と呟いたタークスに警備長は震え上がった。向き直った鋭い夕日色の瞳が彼を射竦める。

「警備兵の訓練がなってない。捕虜は逃がす、射撃は下手、これで機密が護れるか」
「申し訳ございません」
「叩き直すからそう思え」
「はっ」

 恐縮しながらも、警備長は気分が高揚してくるのを抑えられなかった。平和で退屈だったニブルヘイムに、新たな風が吹きそうだ。
それが暴風だろうが熱風だろうが、やることもなく朽ち果てていくよりははるかにマシ。後世から見ればニブルヘイムが平和でいられる
のはあとわずかだったのだが、何も知らない警備長は赴任してきたエリートタークスのもたらす緊迫感に酔いしれていた。






 屋敷を襲った11名のうち10名を射殺し、1名とおまけのもう1名の身柄を拘束したヴィンセントは警備兵に見張りを任せて、ルクレツ
ィアのラボへ報告に向かった。


「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました。屋敷内には実質的な被害はありません」

許可するまで研究室から出ないでくださいと言われていたルクレツィアは急いで彼のそばへ駆け寄ってきたが、血に濡れて色を変えた
タークスの制服を見て眉間に深いしわを寄せる。


「大丈夫じゃないわ!」
「いえ、侵入者は制圧しました。話せるようになり次第事情を聴取し、その後本社へ送ります」

10人殺して1人は半殺し。意識が戻るのを待って尋問するとは彼女の前ではさすがに言えず、ヴィンセントは言葉を選ぶ。

「そうじゃなくて。大丈夫じゃないのはあ・な・た」
「は?」
「は、じゃないでしょ。こんなに血がついてるのに気付かなかったの?」

 ヴィンセントは自分の左胸を見下ろした。
矢の刺さった穴を中心にして濃紺の上着がどす黒く染まっている。言われて見れば痛いことは痛い。左腕が上がらず毒が回り始めて
確かに熱っぽいが、全ては想定の範囲内でもある。


「脱いで。手当てするから」

「え」

 特殊なつくりになっているタークスの制服はボタンではなくジップアップタイプだ。それを遠慮なく引き降ろしかけたルクレツィアの手を
ヴィンセントは慌てて押さえた。


「いや、あの、慣れているので大丈夫です。自分で何とかします」
「冗談じゃないわ。プロがいるのに何で素人治療をしなくちゃいけないの」

いいからさっさと脱いでベッドに上がって、とルクレツィアはヴィンセントを追い立てる。
そのセリフはもう少し違う状況で聞きたかったとこっそりため息をつきながら、ヴィンセントは血でごわついた上着とワイシャツを脱ぎ、
その上にホルスターと銃を置いて診察台に上がる。

 綺麗に筋肉のついたアスリートのような身体には、あちこちにタークスの仕事の激しさを思わせる古傷が白く痕を残していた。
そこに新たな勲章を加えるかのように、肌理の細かい肌に突き刺さる折れた矢の先端と、紫色に変色し始めた傷が左肩に近い部分に
口を開けている。


「もう信じられない。これでどうして大丈夫なのよ?!」
「すみません」

自分でも何故謝っているのか分からないままにヴィンセントはルクレツィアをなだめようとする。

「毒の耐性訓練は受けてますから、2,3日で抜けるはず…」
「そういう問題じゃないでしょ!」

容赦なく傷の周囲を洗浄しながらルクレツィアは彼の言葉を封じる。

「毒もそうだけど、こんな汚い金属が体内に入って腐食したら感染源になるのよ」
「はぁ」

だからいつもは火で炙ったナイフで異物を取り出しているのだが、そんなことを言ったら余計に怒られそうなのでヴィンセントは黙って
おくことにした。その彼の視線に麻酔薬を取り上げたルクレツィアの姿がうつる。


「それはいりません」
「え?」
「局所麻酔は効きません。かえって傷の治りが悪くなるから使わないで」

ルクレツィアは目を丸くする。

「だって、すごく痛いよ?」
「我慢するしかないですね」

それでも、痛みに耐えているだけで自分で処置をしなくて済むのは助かります、とヴィンセントは笑う。
ルクレツィアは信じられない、と首を振り、思いついたように自分のハンカチを出してきた。


「じゃ、これ噛んでて」

これが役に立つのかと半信半疑のヴィンセントの口に畳んだハンカチをくわえさせて、ルクレツィアは手早く準備を整えると傷の処置を
始めた。

 
 電気メスは切れ味がいい上出血しないので作業がしやすい。だがその分傷口を灼いていくので痛みが激しく、麻酔なしで使用する
など考えられない。
最初はくわえたハンカチではむはむと遊んでいたヴィンセントも、すぐに脂汗を浮かべて歯を食いしばることになった。
組織の灼ける臭いが電気臭と共に部屋に広がっていく。


「ごめん、痛いよね。もう少しだから頑張って」

時間がたって肉が巻きつき始めていた矢をようやく抜き取り、ルクレツィアは毒に侵されていた周囲の組織を心を鬼にして削っていく。
壊死することが分かっている部分を残しておくのはまずい。


「うっ…く…」

ハンカチを食いしばったヴィンセントの喉が小さく鳴った。裸の肩が震え右手の指がベッドの端をきつく握り締める。
それでも処置を受けている左側は動かさないのは、修羅場を潜り抜けてきたタークスの意地と矜持。


「ごめんごめんごめん!でも動いちゃダメ!」

口でなだめ励ましながらも、ルクレツィアの手は容赦なく処置を続ける。
厳しく真剣な表情は、傷を縫合し保護材を貼り付けてからようやく和らいだ。


「終わりよ。よく我慢でき…」

 患者をねぎらうルクレツィアの言葉は途中で途切れた。
瞳を開いたヴィンセントの目尻からぽろりとこぼれた涙に彼女の視線は釘付けになる。いつも見上げている端整な顔が今は見下ろす
位置にあって、まるで彼を苛めたような錯覚にとらわれルクレツィアは胸がきゅんと痛んだ。


このまま泣かれてしまったら、自分はどうしたらいいのだろう?
紅いガラス玉のように綺麗な瞳からこぼれる涙は、同じように紅い透明の玉になるのだろうか。

そんな彼女の感傷を他所に、熱と痛みで生理的な涙をこぼしただけだったヴィンセントはほっとしたように口のハンカチを取り出した。

「ありがとうございました」

 至極冷静な声に、抱きしめてあやしてやりたいモードになっていたルクレツィアははぐらかされたような気分になる。
コホンと咳払いして彼女は彼の身体に包帯を巻きながら答えた。


「どういたしまして。素人治療より数倍楽なはずよ」
「……ナイフで切るより痛かった」

 自分でやる場合は思い切りよくざっくりと切るので、傷は大きくなるが短い時間で済む。ルクレツィアは傷を最小限にしようと丁寧に
ちまちま切ったため、処置の痛みが長時間続いた。ぼそりと本音をもらしたヴィンセントに彼女は憤慨する。


「失礼ね!麻酔はいらないって自分で言ったんじゃない」
「電気メスがこんなに痛いとは知りませんでした」
「だから警告したわよね」
「はい。次は全身麻酔でお願いします」

科学者の前で眠ったりしたら、ついでに色々検査しちゃうわよと脅されてヴィンセントは怖がるふりをしてみせる。

「まあいいわ。毒消しと抗生剤の点滴するからそこに寝てて。毒が消えるまで3時間は動いちゃダメよ」

ルクレツィアは周囲を片付け、肩から胸にかけて包帯を巻かれて上半身裸のままの彼に毛布をかけた。
それなりに疲労したヴィンセントは大人しく寝ている。


「随分、手際がいいんですね」
「私、ニブルヘイムの村医師も兼ねてるのよ」
「?」
「ここのドクター、風邪と腹痛しか診られないの」

 そのために、神羅製作所の職員はニブルヘイムに滞在中体調を崩したりモンスターと闘って負傷したりすると、ルクレツィアの診察を
受けるのだという。それだけでなく、村の住民も怪我をするとルクレツィアに治療を頼みにくる。
ガスト博士は論外、宝条が村人の相手などするはずがない。生物学、古生物学とともに医学も修めている彼女は、サンプルの解剖や
実験などで鍛えた腕を人間の治療にも流用していた。
 本社も現地住民と良好な関係を構築するのに役立つ、と黙認している。


「麻酔なしで手術すると聞いたら来なくなりますね」
「だから、それはあなたのリクエストだったでしょ!」

まさか痛いのが好きなわけ?、いいえ、採血の針が怖くてメディカルチェックをさぼるくらいですから、と口の減らない患者と冗談を
交わしながら、ルクレツィアはカルテを書き始めた。


「治療費は給料から天引きになるからね」
「タークスの怪我は全て労災扱いなんです」
「へえ、知らなかった。…生年月日教えて」
「〔μ〕-εγλ1957年10月13日」

やっぱり年下。
しかも2年3ヶ月も。

処置用の狭いベッドの上でもぞもぞと寝返りを打つヴィンセントを見て、可愛いなと心の中で呟きながら、ルクレツィアはあることに気付
く。


「…今日じゃないの?」
「あ、そうでした」

呑気な返答にルクレツィアは呆れたように笑った。

「大変な誕生日になっちゃったね」
「ええまあ」
「可哀相だからプレゼント、何かあげようか?」
「グラスランド産のロゼをフルボトルで」
「今日はお酒はダメよ」

即座に却下されたヴィンセントはしゅんとして見せ、それから手に持ったままだったハンカチに目を落とした。

「これを…」
「あ、ごめん。捨てちゃうからちょうだい」
「いえ、これをもらってもいいですか?」

ルクレツィアはきょとんとして首をかしげた。

「いいけど、そんなものどうするの?」
「…痛み止めのお守りにします」

ヴィンセントはわずかに頬を赤らめて毛布の中に顔を半分もぐりこませる。
敏腕タークスとは思えないほど初心な様子に、ルクレツィアは微笑を顔中に広げた。


「じゃ、お守り抱いて寝ててちょうだい」
「はい、ドクター」

嬉しそうに笑ってヴィンセントはうなづく。
その笑顔に見惚れていたことに気付いたルクレツィアは、再び小さな咳払いをしてカルテに目を落とした。

静かな室内に、彼女のペンの音だけがかすかに聞こえる。

 ゆっくり滴下する薬液の雫を眺めながら、ヴィンセントはあくびを噛み殺した。
毒消しが効き始め、少しずつ身体が楽になって来ているのを感じる。もう起き上がって捕虜の尋問に行きたいのだが、絶対に逆らえ
ないドクターストップをかけられてしまった。
ここに寝かされているとやることもなく眠気が襲ってくる。


「痛み止めも効かないのかな?」

 処方箋を書きながら聞いたルクレツィアは返事がないので顔を起こした。
ベッドに丸くなったヴィンセントは手にしたハンカチを頬に当てるようにして眠っていた。
鋭い光を宿している夕日色の瞳を閉じ、汗に濡れて乱れた髪を頬や額に貼り付けた寝顔は、見るものの庇護欲をかきたてる。

日頃は抑え付けている愛しさが胸いっぱいに広がり、ルクレツィアは微笑んだ。

今日だけ、誕生日なのに怪我をしてしまったかわいそうな彼に優しくしてもいいことにしよう。

「…痛み止めの追加、ね」

ルクレツィアは屈みこんで彼の乱れた髪を指先で梳き上げ、さっき透明な涙をこぼした瞼にそっとキスを送った。








                                                                             syun
                                                                            2009/10/13

初のタークスヴィンセントですが、とっても楽しく書けました。いやぁ何が楽って、主役がちゃんと喋ってくれることくらい楽なことはないですね!
いつもは「ああ」だの「さあな」だの「……」ぐらいしか言わないヴィンさんで話を進めようとすると相手役にストーリーテラーを配するか地の文で補足
しなくちゃならないので、やたら説明的な文章になってしまいます。このヴィンセントの年齢設定は24,5なので(外見年齢ではなく!)それなりに若さと
青さを出しても大丈夫。前半の冷酷なタークスオブタークスとルク女史の前でネコをかぶる護衛さんの落差に笑っていただければ本望です。
普通の医療機関で治療を受けたなら、きっと「タークスには痛覚がない」と思われるくらい無表情で通すはずのヴィンセントが人並みに痛がるのは、
きっとルクレツィアの前で甘えが出たからじゃないかと思います。他のタークス仲間が知ったら仰天するような甘ったれぶりですが、ルク女史の母性本能は
刺激したようです(笑)





Novels