おやすみ、いい夢を
湿った、黴臭い匂い。
最初に目覚めたのは、どうやら嗅覚らしい。眠りの海に沈んでいた意識が、徐々に覚醒へと押し上げられる。ゆっくりと深い息を
吐き出しながら、ヴィンセントは瞳を開いた。
濃い闇が彼を迎える。
身じろぎして肩が堅い壁にぶつかるのを感じ、彼は眉をひそめてそっと周囲を手で探ってみた。
ビロードのような手触りの布に内張りされた、ごく狭い空間が彼を取り囲んでいる。そして身体を覆う馴染みのない感触に彼は首を
かしげた。
左腕に付けられた金属性の物体。指を動かすたびに、カチャカチャと小さな音を立てる。最初ギプスの類かと思ったのだが、そう
でもないらしい。
次に、頬や首筋にまとわりつくものが彼の気を引いた。
『何故、髪がこんなに…?』
掴んだ髪を軽く引いて自分のものであることを確かめると、疑問と恐れが泡のように浮き上がってくる。
『いったい、どうなっているんだ?! 』
ここはどこで、何故自分はこんなところに閉じ込められているのか。彼は自分の上部を塞いでいる、蓋と思しき部分を思い切り
押し上げた。
手ごたえはない。蓋はびくともせずに、沈黙を守っている。
舌打ちした彼の脳裏に銃を構えた白衣の男の姿が浮かんだ。銃声と、胸を撃ち抜かれた衝撃が生々しく甦る。油断していた
とはいえ、素人に正面から撃たれるなどタークスにあるまじき失態だった。生々しく記憶に残る致死レベルの痛み。
あの男が殺人の証拠隠滅を図って、遺体をここに運んだというのは想像に難くない。
『だが、何故私は生きている?』
次に記憶に浮かびかけたのはおぞましい魔獣に変身した自分の姿。ヴィンセントはそれを振り払うように頭を振り、渾身の力を
込めて蓋を叩き、蹴り上げた。
感触からすると布の内張りをしたただの木製の箱。彼の体術を持ってすれば、おそらく蹴り壊せるはずだ。
だが身体は記憶通りの力を持ってはいなかった。腰を探って銃がないのに舌打ちし、服装すらタークスの制服から換えられて
いることを知る。通信手段も無論ない。可能性は低いと知りつつも声を限りに救いを求める。
ここから出たい。ルクレツィアは無事なのか。ジェノバプロジェクトはどうなったのか。そして背に届く長さに伸びた髪が暗示する
恐ろしい疑問が意識に浮かぶ。
今は、いったいいつなのか。
だが、彼の声に答えるものはいない。
カオス因子の働きでようやく崩壊が止まり人の姿を保っている身体は、長時間の活動にはまだ耐えられなかった。
蓋を叩く腕の動きが弱まり、声は掠れて小さくなっていく。
『こんなところで、死ぬ…の…か…』
生への執着に足掻く彼の意識は、やがてぷつりと切れて闇に飲まれた。
闇の中での目覚めは、何度か彼を訪れた。
そのたびに何とか脱出しようともがき、力尽きて意識を失う。もはや時の感覚は失われて久しい。何故自分が餓死もせず生きて
いられるのか。むしろ覚醒するたびに身体に力が戻ってきていることを不思議に思いはするが、ここから出なければ答えは得られ
ない。
繰り返し襲ってくる絶望と諦めから彼を幾度も立ち直らせたのは、彼自身の強い精神力とルクレツィアへの想いだった。
何度目かの深い眠りから醒めた彼は、相変わらず狭い空間にいることに重いため息をつく。指先を切り落とした皮手袋をはめた
手に伝わってくるビロードの感触は、だいぶくたびれたものになっていた。
それは、彼が逃れようと暴れたせいなのか、それとも 繊維が変質を起こすほど永い時がたったということなのか。
ヴィンセントは気を取り直すように短い息を吐き、力を込めて蓋を押し上げた。狭い空間の中で可能な限り反動をつけ、何度も
蹴り続ける。
沈黙を守り続けていた頑丈な蓋が、ぎしりと音を立てた。それに力を得て、更に強く蹴り上げる。
永い間彼を拘束していた強固な檻が、ようやく開かれた。
おそらく、蓋と本体の接続部分が錆び付いて脆くなっていたようだ。ようやく動くようになった重い蓋を押し開けて、ヴィンセントは
ゆっくりと身体を起こした。
湿気と黴の匂いがする濁った空気が彼を取り巻く。
嗅覚が伝えてきたとおり、そこは神羅屋敷の地下に作られた施設の一部だった。石壁のつくりが同じため、一目で判別がつく。
地下牢とも地下墓地ともとれるその場所には、彼のもの以外にも複数の棺桶が雑然と並べられていた。そして、壁沿いにうず高く
積まれた白骨の山。
「…実験体の処分場所…?」
骨の中には人間とも動物ともつかない、奇怪な形をしたものもある。宝条が隠れて動物実験を繰り返していたことは掴んでいた。
本社からの指示で大目に見てきたのが、裏目に出たようだ。
すぐに本社に報告せねばならない。宝条の処分と、ルクレツィアの保護を上申すべきた。ジェノバプロジェクトの一時凍結はやむ
を得ないだろう。タークスとしての思考が一瞬彼の意識をかすめたが、彼は苦笑いと共にそれを振り払った。
閉じ込められていた時間がどれほどなのか、見当もつかない。現状がどうなっているのか、確認する方が先だ。
ヴィンセントは立ち上がり、自分の奇妙な姿に当惑した。
革製と思われる服に、足の甲を金属で覆ったブーツ。左腕には同じく金属でできたガントレットがはめられている。
そして全身を覆う長いマント。
自ら身につけた覚えのないその服装を調べている途中で、彼はあることに気付いた。
この部屋には光源がない。夜目は利く方だが、まったく光のない中で何故ここまで周囲の状況が見えるのか。その疑問は封じて
いた疑問を呼び起こしていく。
何かが彼の身体に起きている。何故命を落としたはずの彼が生きているのか。長期間閉じ込められながら、生き永らえたのは
何故なのか。それは、知りたくもない答えを暗示しているように思える。
彼は迷いを振り切るように頭を振った。全ての鍵は宝条が握っている。捕らえて問質すのが一番の近道だろう。
一歩踏み出したヴィンセントの身体を、異様な衝撃が突き上げた。
「……っ?!」
思わずよろめき、彼は腕で自分の身体を押さえ込む。
身体の内部に宿った別の生命が覚醒し、それに呼応して細胞が変化を始める。全身を引き裂かれ、組み替えられるような激痛
には覚えがあった。驚きと恐怖に見開かれた彼の目の前で、腕が、脚が人間以外のものに変貌していく。驚愕の叫びを上げた彼
の声はしかし半ばから魔獣の咆哮に変わった。絶望と共に、ヴィンセントの意識は闇に引きずり込まれていく。
視界に最初に入ってきたのは、左腕につけられたガントレットだった。
蓋の開いた棺桶にもたれるように座り込んでいたヴィンセントは、緩慢に頭を起こして自分の姿を確認する。
「…幻覚だったのか?」
額から流れる冷たい汗を拭って、彼は長い吐息をつく。その視線が床に付けられた深い爪痕に釘付けになった。
恐る恐る手を触れてみると、指先が埋まるほどの深さに堅い岩盤が抉られている。ガントレットで付けられるような跡ではない。
恐ろしい予感に駆られて周囲を見回すと、破壊されたいくつかの棺桶、踏みにじられた白骨が散乱していた。
強大な力を持った何物かが荒らしまわったような痕跡。ところどころに付けられた、巨大な四本の爪あと。
意識を失う直前に見た自分の手を思い出して、ヴィンセントの身体は小刻みに震え始めた。
「あれは、夢ではなかった…」
何故自分が生きているのか。そしてこの状況で生き続けられたのか。その残酷な答えが容赦なく彼に突き付けられる。
抱え込んだ片膝の上に額を押し付け、ヴィンセントはしばらく動かなかった。
常軌を逸した宝条の実験に対する憤りと、それを阻止できなかった自分への怒り。そして不本意な改造を受けたわが身への嫌悪。
ガントレットをつけた左手が、土の床を抉りながらきつく握り締められる。
「…ますます、宝条に会わねばならないようだな」
ようやく頭を起こし、ヴィンセントは低く呟いた。
地下牢にかけられていた鍵は、彼にとってはないも同然だった。
外に出ると、馴染んだ神羅屋敷の地下通路がいやに新鮮に思える。だが、そこを通り抜け地下研究エリアに入ったヴィンセントの
足は、一瞬凍りついた。
室内は長期間放置されたとしか思えないほど荒れ果てていた。床や什器類、コンピュータや計器などにまでうず高く埃がつもり
木製の書架は所々棚が壊れてファイルが散乱している。
ヴィンセントはコンピュータに張られた備品管理用のバーコードシールを目にして、思わず息を呑んだ。
そこに記されている年号は、彼が宝条と言い争った日よりも二年後。それが古びて埃を被っているということは、それ以上の歳月
が流れたことを意味する。
「いったい、今は何年なんだ?」
ヴィンセントは室内にあったコンピュータを立ち上げようとしたが、いずれも機能を停止していた。ハードの問題以前に、この部屋
の電気系統が機能していないようだ。
彼はただの箱と化したコンピュータに見切りをつけ、立ち上がった。
資料庫へ行く途中、彼はかつて宛がわれていた私室に立ち寄った。
幸い生きていた電子ロックは古い暗証番号を受け入れてすんなりと扉を開いてくれた。室内は分厚い埃にうもれてはいたが、彼が
部屋を出た時のままきちんと片付いている。どうやら後任のタークスは派遣されなかったようだ。
ヴィンセントはロッカーから予備のオートマチック銃を取り出した。武器がないのはなんとも心もとない。
タークスの標準装備だったクイックシルバーは、制服の裏ポケットではなく太腿に付けられたホルスターに滑り込んだ。
業務日誌は彼が撃たれた翌年で終わっていた。
ジェノバ・プロジェクトは本社へ移転。プロジェクトの責任者である宝条と、当時まだ幼児だったセフィロスもミッドガルへ移ったらし
い。ルクレツィア・クレシェントは体調不良のため長期休職に入ったことになっている。
「ルクレツィア…」
その文章をそっと指先でなぞり、ヴィンセントは呟いた。
今は、どこでどうしているのか。プロジェクトのために無理をしていた身体は回復したのだろうか。
そして、セフィロス。ルクレツィアの小さな息子は、古代種としての能力を本当に復活させているのか。
出産後会うことも許されなかった母と子に、ヴィンセントは僅かな胸の痛みを覚える。
セフィロスが大切な研究成果である以上、研究者であるルクレツィアが母として接するべきではないことは分かる。
だが、何かが根本的に間違っているように思えてならない。
何よりも、プロジェクトの第一人者であったガスト博士の急な脱退の理由が解せない。古代種研究の権威であり、その復活に力
を注いでいた彼が、何故突然退職し学会からも退いてしまったのか。
「ねえ、ヴァレンタインくん。ジェノバは、本当にセトラだと思うかい?」
疲れた様子でそう呟いた、ガスト博士の声が脳裏に甦る。博士は、タークスである彼に何故か全幅の信頼を寄せていた。
プロジェクトに関する報告書に目を通してはいたが、ヴィンセントは研究者ではない。個人的な感想はともかく、その質問は彼の分
を超えていた。何故そのようなことを言うのかと逆に問う彼に、博士は淋しげに首を振るだけだった。
宝条が後任になってから、ジェノバ細胞を使った動物実験が飛躍的に増えた。
謎めいたガストの言葉が気になっていたヴィンセントは、徐々にジェノバプロジェクトに疑問を持ち始める。
ガスト博士の後任にしては、力不足の二流科学者。宝条に対する彼の評価は決して高くはない。だが、プロジェクトに対する情熱
は、並々ならぬものがあった。ガスト博士の脱退後、なんとか実績を出さなくてはと焦るルクレツィアも同調し、彼の目からは暴走
に見える研究が進められていった。
「…あの時点で、止めておけばよかった」
今更言っても仕方のない、苦い後悔。
当時彼には、プロジェクトの機密保持とともに研究者たちの動向監視も課せられていた。
「タークスオブタークス」の異名を取る彼を第一線から外し、ニブルヘイムなどという田舎に送り込んだことからも、神羅の期待が
大きいことは明白だ。
だが、社の利益に反するならプレジデントの一声で中止ということもありうる。その意思決定を左右しているのが、毎月送られる
彼の報告書だった。
しかし、プレジデントの胸のうちまでは読みきれない。客観性を保ちつつも、プロジェクトの妥当性に疑問を投げかける内容の報告
書を送り続けたヴィンセントは、神羅が古代種の復活よりもジェノバの生命力と回復力に重点を置き始めたことを知らなかった。
時代は徐々に戦乱期に入っており、星の声を聞く古代種よりも屈強な兵士が必要とされ始めていたのだ。
日誌を遡って読んでいたヴィンセントの手が止まった。
「本社より派遣された総務部調査課 ヴィンセント・ヴァレンタイン。侵入者と銃撃戦の末、殉職」
陳腐な文にヴィンセントは失笑する。だが、すぐに表情を改めて、日誌を丁寧にめくり始めた。
タークスの捜査が入っていない。本社の査察も記載されてはいなかった。通常ならば総務部調査課が乗り出してくるはずだ。
検死の記録すら残っていなかった。
逆に、プロジェクトに対する予算の臨時追加が決まり、実験動物の大型化が目立ち始めている。そして、一年後には宝条は本社
へ異動。
「そういうことか…」
彼はぱたりと音を立てて分厚い日誌を閉じた。
後任のタークスが派遣されないわけだ。プレジデントは、宝条を選んだ。ジェノバ細胞から生み出される、強化人間への期待を
育んだのは、セフィロスの成長記録に違いない。
ジェノバプロジェクトへの疑問を呈した彼の報告書よりも、培養したジェノバ細胞と高濃度の魔晄照射による人体強化の可能性
を示唆した宝条の論文の方が、プレジデントの気を引いたというわけだった。
どんなに理不尽と感じる決定でも、社長命令となれば従うしかない。
しかし、その為に捨て駒となるのは些か受け入れ難い。もともと希薄だった神羅への忠誠心があっけなく崩れ、彼は唇をかみし
めて社章をつけているはずの左襟へと手を伸ばした。
だが、指に触れたのはマントの高い襟を止めている革のベルトだった。バッジを引きちぎるつもりでいた手から力が抜ける。
『私は死んだ人間だ。もはや神羅とは関係ない』
苦い思いが胸に満ちる。怒りと、後悔と、無力感が毒のように彼を侵食していく。うつむいたまま立ちつくしている彼の全身から、
歪んだ気が漂い始めた。日誌を掴んだ指に力が入り、彼の内心の葛藤を反映するかのようにぞわりと形を変える。
長い、強靭な爪をもつ魔獣の前肢。その映像は、負のエネルギーに囚われかけていた彼を正気に引き戻した。
「…またか!?」
全身が燃え上がるような熱を持ち、勝手に変化していく苦しさに、ヴィンセントは喘いだ。
その鼻先が長く伸び、開いた口からは大きな牙がのぞく。絶望の呻きは、獰猛な唸り声に変わっていく。
『いやだ! 魔獣になど…なりたくない!』
床に倒れこみもがきながらも、闇に飲まれそうになる意識を手放すまいと必死で抗う。身体を引き裂いて、内部から異生物が
現れるかのような苦しみ。それを彼は無理やり押さえ込んだ。
それはとてつもなく長い時間に感じられたが、実際はどうだったのだろうか。全身の細胞の興奮が収まっていく感覚に、ヴィンセ
ントは小さな安堵を覚えた。埃まみれの床に倒れたまま、荒い呼吸を整えようとする。
その自分の姿が、壁から外れて床に落ちた鏡に映っていることに気付き、彼はぎくりとした。
顔に乱れかかる長い黒髪。その隙間から見える瞳は、金色の光を放っている。喘ぐ口元からは尖った牙が覗き、両手もまだ
人間の形状には戻りきっていない。
「これが、私なのか…」
人ともモンスターともつかない、異形の生物。
ヴィンセントはそれ以上正視することができず、右腕の上に顔を伏せた。
「神羅だけでなく、人ですら…なくなったというわけか…」
自嘲気味に、小さく呟く彼の言葉を聞いているものはいない。ヒビの入った鏡だけが、彼の無言の嘆きを映し出していた。
神羅屋敷の玄関ホールに近い大広間を、ヴィンセントはゆっくりと突っ切った。
重厚な扉のノブに手をかけようとして、ふとその動きが止まる。
外へ出て、何をしようというのか。ミッドガルまで、宝条を追うつもりか。会って、どうする?
宝条がルクレツィアの行方を知っている可能性は低い。セフィロスが手元にいる以上、奴にとって彼女は用済みのはずだ。
ならば、ルクレツィアの行方を捜すまで。どこかで神羅本社の人事ファイルにアクセスすれば、何らかの情報は得られるだろう。
今の、この身体で?
自問自答を続け、最後の問いにヴィンセントはびくりと身を震わせた。
目覚めてから短時間のうちに、もう数回魔獣へ変身している。その間の意識はない。正気に戻ってから、自分の周囲の惨状に
愕然とするばかりだ。
何かきっかけで変身してしまうかわからない。そして、どのくらいの時間、魔獣の姿でいるのかも不明のままだ。
それを抑える術もないままに、人里へ出られるのか。悪戯に騒ぎを起こし、あげくに狩られる羽目になるのでは意味がない。
何よりも、見つけ出した彼女を手にかけてしまったら、取り返しのつかないことになる。
ノブにかけられようとしていた右手が、力なく下ろされる。
しばらく扉の前でうなだれていた彼は、やがて諦めたように踵を返した。ステンドグラスの窓から夕日が差し込むホールは、静寂を
たたえたまま彼を迎えてくれる。
何気なくマントルピースの上を見やった彼の瞳が、見開かれた。
そこに置かれていたのは太陽電池で動くデジタル時計。日の差し込む部屋に置かれていたため、これだけは生きていたらしい。
正確な現在の日付を、薄くなった液晶の画面に映し出している。
ヴィンセントは駆け寄って、その時計を鷲掴みにした。その瞳が食い入るように、年数の表示に見つめる。
その数字は、彼が撃たれたあの日から十六年が経っていることを示していた。
乾いた笑い声が、彼の唇から洩れた。
手遅れもいいところだ。今更何ができるというのか。
社会的に抹殺されただけでなく、時間の狭間に取り残された彼に、もはや打つ手などない。神羅屋敷の埃まみれの鏡たちは、
時を止め人外の存在になった彼の姿をまざまざと映し出してみせる。その上魔獣に変身してしまう身体を抱えて、ルクレツィアを
探し出すなど不可能に近い。
何もかも、間に合わなかった。全て、自分の不手際のせいだ。十六年も経ってから覚醒しても、何の意味もない。
ガスト博士から脱退の真意を聞き出さなかった。それを元に、ルクレツィアや宝条を止められた可能性もあったのに。
ジェノバプロジェクトに対する懸念を、ルクレツィアに伝えることもしなかった。そして、人体実験に自ら臨む彼女を止めなかった。
一番大切な人を守り切ることができなかった。否定され拒絶されることを恐れて、彼女に向かい合おうとしなかった。
その弱さに対する弾劾。
信用できない男の腕に飛び込んでいってしまうのを看過し、彼女が幸せならば、かまわないと目を逸らした。
その自己欺瞞に対する罰。
今の自分は、重ねた罪の結果としてここにいる。
『お前の出る幕など、もうどこにもありはせんよ』
頭の中で宝条の哄笑が響く。
『お前の負けだ。ヴィンセント・ヴァレンタイン。大人しく引っ込んでいるがいい』
時計をマントルピースの上に戻し、ヴィンセントはそこに腕を持たせかけて額を乗せた。
過ぎ去ってしまった時は、もはやどうにもできない。生きる意味も場所も失った彼に出来ることは、打ち捨てられたこの屋敷に幽閉
されるという罰を受けることのみ。
「…ルクレツィア……すまない…」
小さく呟いた彼の右手が、クイックシルバーのグリップにかかる。
夕闇が支配し始めたエントランスホールに、一発の銃声が響いた。
ルクレツィアははっと目を覚まして、隣に眠る男をのぞき込んだ。
そう表情の豊かな方ではないヴィンセントが、明らかに苦痛と恐怖に表情をゆがめ、夢魔に責め苛まれている。
滅多に弱音を吐かない硬質の唇からもれる苦痛の呻きを聞いていられず、彼女は悪夢にうなされる男を揺さぶった。
「ヴィンセント、起きて!」
何度目かの声にヴィンセントははっと目を見開いた。夕日色の瞳は虚空を見つめたまま、大きく胸を喘がせる。
その額に流れる冷たい汗をルクレツィアはそっと拭ってやった。かすかに震える頬に両手を当て、なだめるようにゆっくりと語りか
ける。
「大丈夫よ。夢を見ただけなの。落ち着いて」
「………」
悪夢に捕らわれていた男はせわしない呼吸を繰り返し、ようやくその瞳に想い人を映し出した。数回の瞬きの後ようやく落ち着いた
ように深い息を吐き出す。
「…すまない。起こしたか…?」
「ええ。あんまり苦しそうだったから。大丈夫?」
「ああ…」
久しぶりに夢魔に捕まるときつい、とヴィンセントは自嘲気味に呟いた。
過去の罪と後悔、それに自分の存在意義を根こそぎくつがえされるような、想像を絶する責め苦。その刑の執行者は彼自身。
彼の潔癖さと優しさが自分の罪を決して許さず弾劾し続ける。
その悪夢を他人に語ったことはない。言葉にすることもできないほど重い鎖は彼の精神の一番脆い部分をきつく縛り上げていた。
ルクレツィアとの再会により、ようやく自分を許すことが出来た彼。それと同時に夢魔は彼を解放したはずだった。
「ちょっと待ってて。ホットウィスキーでも持ってきてあげる」
ベッドから抜け出そうとしたルクレツィアの腕を、ヴィンセントは掴んで引き戻した。
「何?」
「何もいらない。そばにいてくれ」
子供のようにすがられ、彼女は優しい笑みを浮かべてうなづいた。乞われるままにベッドに戻ると、長い黒髪の頭を抱き寄せる。
ヴィンセントはルクレツィアの柔らかな胸に顔を埋め、瞳を閉じた。
ルクレツィアは、彼の長い黒髪を指先で梳きながら古い子守唄を口ずさむ。
堅くて張りのあるストレートの黒髪。それは、彼女が選んだ薄いブルーのパジャマをまとった背に流れている。
長身のため細身に見える彼だったが、こうして触れていると戦士らしい鍛え上げられた身体をしているのが分かる。無駄な肉など
ひとかけらもついていない、すっきりとした肩から背にかけてのライン。そっと手を滑らせると、強靭な筋肉を感じる。
他人には扱えない大型のハンドガンを常用する右手は、今はゆったりと彼女の身体に回されていた。
魔獣を身に宿した不老不死の戦士は、今は無防備に想い人の胸で安らいでいる。
ルクレツィアは軽い寝息を立て始めたヴィンセントの顔を静かに見つめた。
長い睫毛が影を落とす端整な美貌は、初めて出会ったころと変わりはない。だがその表情は、彼が歩んできた行程の険しさを
物語っていた。
仲間たちに言わせれば彼女と再会してから表情が豊かになったそうだが、ルクレツィアの知るヴィンセント・ヴァレンタインは、本当
にタークスなのかと思うほど感情を素直に表す青年だった。仕事は完璧だがどこか世慣れぬ青さを可愛いとすら感じていた。
しかし、再会した彼は極端に無口になり、老成した雰囲気をまとっていた。護衛の身で研究者の議論に口を挟んできたほど熱い
面を持っていた彼が、醒めた態度で他人と一線を引く姿に、ルクレツィアの心は痛んだ。
いったい、どれほどの苦しみをこの身に背負ってきたのだろう。
彼女は、眠るヴィンセントの背中を優しくさすった。他人には距離をとろうとする彼だが、ルクレツィアに対しては愛情を注ぎ続けて
くれる。彼の不幸の原因を作ったのは彼女であるにも関わらず、その態度は変わらない。
初めて神羅屋敷で出会った頃から長い時を越えても、離れ離れになっていた時間が長くとも、彼は彼女のみを求め続けていた。
それならば、精一杯その想いに応えよう。
罪悪感や思いやりを理由に相手と向かい合わないのは不誠実だと、今では二人とも十分承知していた。
戦いでは、誰の援けも必要としないヴィンセント。だが、彼の心を護ることができるのは自分だけ。苦しめてしまった分、思い切り
甘やかしてあげたい。彼の心が自分にだけ、無防備に開かれているのを知っているから。
ルクレツィアはそっと彼の頭に頬を摺り寄せる。
明日、彼を縛るこの長い黒髪を、切ってあげよう。
2007/4/16
syun
サイト開設一周年記念創作です〜。こうしてみると、やっぱりルクヴィンサイトなV Analysis。ヴィンセントが目覚めてからどうして外に出ない
で引きこもっていたのかを色々と考えてみました。無印本編だと抑うつ状態の引きこもりだったんでしょ、BGMだって陰気なトレモロだし。で片
付いてしまうのですが、骨太なDCヴィンセントを見てしまうと、それだけじゃなかろうと思いまして。ジェノバプロジェクトの業務日誌が紙媒体な
のは、えーと、プレジデントの趣味ですかね(汗)そして、一周年記念なのに陰気な話じゃあんまりなので、ラストはルクヴィンほのぼので締めて
みました。ルクさんは、ターヴィンが可愛くって仕方なかったんじゃないでしょうか。経験年数の少ない男性社員が、バリバリできるお姉さんに
憧れるというのも定石ですし。この二人はけっこうありがちなオフィスラブだったんだなあ。ラストは、仕方がないから世界を救うというとんでもない
展開になりましたが(笑)