こんにちは、赤ちゃん





「『へんしん』のマテリアじゃないのか?」
「それっぽいんだけど、使ってみても何も起こらなかったんだよ」
 ルクレツィアのラボで、大きなテーブルの上におかれた翠色に輝くマテリアを覗き込む、隻眼の科学者とウータイの忍。
壁際の大型コンピュータでは、シェルクがマテリアに関するWROのデータベースとの照合をしている。
いつもはルクレツィアと無口な助手が黙々と仕事をするだけのこのラボが、今日は賑やかな客を迎えていた。

「どう?」
そばで共に画面に見入っていたルクレツィアが尋ねた。
「…組成や保有している魔力は、やはり『へんしん』のマテリアと思われます。でも、力のベクトルは物質よりも時間に
向かっているようです」
「わっかんないよ!説明しろよ、シェルク」
テーブルの上で頬杖をついたユフィがブーイングする。シェルクはそばにいる科学者を見上げた。
「今までにない新種のマテリア、ということでしょうか?」
「恐らく、『へんしん』と『じかん』のマテリアが、何らかの理由で融合したと考えるのが妥当かもしれない」
ルクレツィアが考え込みながら答え、ユフィを振り返った。
「このマテリア、どこで手に入れたの?」
「ゴンガガ。メルトダウンした古い魔晄炉のそばで見つけたんだ」
「マテリアハンター、まだ続けてたのか?」
やや得意げなユフィの応えに、シャルアがさりげなく突っ込みを入れる。
「マテリアの使用は星の命を削ること。それは知っているはずだな?」
「知ってるよ!だから、悪いヤツラが使わないように、アタシが集めて管理してるんじゃん」
「管理…」
小さく吹き出したシェルクに、ユフィはテーブルの上にあったデータ印字用の紙を丸めて投げつける。
「ヴィンセントだって、このあいだの戦いでマテリア使ってたよ!」

「…悪いが、銃だけで何とかなる相手ではなかったのでな」
 低い声が、ユフィに静かに異議を申し立てた。振り向いた一同の前に、長身の男がファイルを抱えて立っている。
髪を短く切りありふれた服装をした彼は、一見ただの研究助手か何かのように見えなくもない。
「気配消して忍び寄るなんて、タチ悪いなー」
「…お前が話に夢中になっていただけだ」
ユフィの放つ紙玉爆弾を軽くよけながら、ヴィンセントは依頼主のそばへ歩み寄る。

「お使い、ごくろうさま」
労をねぎらうルクレツィアに笑みを返し、彼はファイルを差し出した。
「数ヶ月前にゴンガガの旧魔晄炉で、小規模なライフストリームの吹き上げが確認されている。おそらく、ミッドガルの
魔晄炉が停止した影響だろう」
「このデータの信憑性はどうなのですか?」
WROのデータベースになかった資料に、シェルクが首をかしげる。
「調査に同行した。そのうち報告が出るはずだ」
護衛として行ったのに、結局メルトダウンした魔晄炉の内部調査まで引き受けてしまったお人好しは淡々と答えた。
「そうすると、このマテリアもその時に地上に吹き上げられた新しいものかしらね」
「この数年で大量の命がライフストリームに還っている。そのことも影響しているかも知れんな」
科学者二人は揃ってファイルを覗き込み、ここ数年の地殻変動のデータとライフストリームの動きを追っている。

「どっちにしろ、使えないマテリアじゃ持ってても仕方ないよ。ミディールに行ったときにでも、星に返してやればいっか」
ユフィは持って来た荷物の中から、大きな包みを引っ張り出した。
「ゴンガガ土産、食べる?低カロリーなのに実はコラーゲンぷりぷりってのが最近分かったらしいよ」
じゃーん!とユフィが取り出したのは、カエルジャーキー。ゴンガガで最近売り出している新商品である。
恐る恐る一本を口にしたシェルクが目を丸くした。
「…意外においしいですね」
「でしょー?もっと食べて食べて」
ユフィは自分も二本目を口に放り込んでいる。
シェルクは、データから目を離さないまま、指先でよこせと合図する姉の手に
ジャーキーを渡した。
「ん、うまいな」
「私も一本ちょうだい」
ルクレツィアに袋を差し出しながら、シェルクは脇で突っ立っている男を見上げた。
「ヴィンセントも、どうですか」
「遠慮しておく」
相手の憮然とした様子に首をかしげるシェルクの後ろで、ユフィの爆笑が弾けた。
「ダメダメ!ヴィンちゃんにカエルは鬼門だからさあ!」
「鬼門?」
「余計なことを言うな」
睨むヴィンセントを尻目に、ユフィはシェルクの耳に口を寄せてごにょごにょと囁く。日ごろ怜悧な表情の元ツヴィエートは
彼女にしては珍しく爆笑した。
ヴィンセントは、ユフィと共にいると明らかに回数が多くなる大きなため息をつく。

「シェルク?」
「何?どうしたの?」
 二人の科学者も思考を中断させて、笑い転げる少女たちを見やる。涙を拭きながらユフィがようやく口を開いた。
「あのね、一緒に旅をしてたころにゴンガガでね…」
「ユフィ…」
「きゃー、ヴィンちゃんが睨むから話せないよぉ」
 わざとらしくシェルクの影にかくれるユフィ。押されたシェルクはジャーキーがこぼれそうになり、あわてて袋の口を押さ
える。


「…珍しいな。キミがそんなに動揺するなんて。ますます話を聞きたくなった」
腕組みをして双方の顔を眺めていたシャルアが、少々意地の悪い笑みを浮かべた。
彼女の隻眼が相棒の科学者に合図を送る。
「ヴィンセント、お茶を淹れてきてくれない?」
 心得たとばかりルクレツィアが、不幸な男の追放にかかった。いつもならヴィンセントの側に立つ彼女だが、女同士の
友情は
時折それを越えるものとなっていた。まして、彼の過去にまつわる面白い話が聞けるのならば、なおさらだ。
「え、いや、しかし…」
抵抗できない相手に正面から挑まれて、ヴィンセントは鼻白む。
「シャルアはブラック、シェルクはアイスココア、ユフィは抹茶ミルクで私はハーブティ。いいこと?覚えたわね」
はい、いってらっしゃいと背を叩かれて、星を救った英雄は体よく部屋から追い出された。
渋々お茶を淹れにいく彼の背には、女たちの爆笑が津波のようにどっしりとのしかかったのだった。


「ゴンガガのタッチミー、話は聞いていたが恐るべしだな」
「何より、被害者が彼一人というのが笑えますね」
「偶然、アタシもシドもその時装備がよかったんだよね。ヴィンちゃんだけ災難でさあ」

室内にひとしきり笑いの渦が広がる。
 かつてゴンガガの森でタッチミーの群れに襲われ、一人だけステータス異常を防止できるアイテムを身につけていなか
った
ヴィンセントを不幸が見舞った。
カエルに変えられ、シドに蹴り飛ばされ、タッチミーに求愛され、モンスターのエサにされかけ、あげくにようやく追いついた
夜営のそばで、シドのスピアに串刺しにされたのだった。
話の一部はユフィの捏造であるが、悲しいことに事実とぴったり合っている。
タッチミーの串焼きを山とつくり、シドとユフィに食えと迫った彼の意趣返しも、今となっては仲間達の笑い話でしかない。


「しかし、『へんしん』の魔法は、他と毛色が異なるな」
シャルアがひとしきり笑ったあと真顔になって言った。
「相手の存在そのものを変えるような効果がある魔法は、他にはない。かなり特殊な力だと思う」
「ヴィンちゃんも変身するじゃない。マテリアなくてもカエルから戻れたのって、それと関係あるの?」
ユフィが、テーブルの上のマテリアを転がしながらルクレツィアを見上げる。
「彼の場合魔獣の因子を持っているから、変身とその解除に、ある程度身体が順応しているのかもしれない」
元神羅研究員はほろ苦い笑みを浮かべる。
「…それに、エンシェントマテリアが何らかの影響を及ぼしている可能性はあるわね」
「タッチミーを捉えて研究したら、何かわかるのでしょうか?」
すっかり気に入ったらしいカエルジャーキーをかじりながら、シェルクがたずねる。
「研究するなら、それが星と人々にとって有益かどうかを確かめないと、ね」
ルクレツィアが表情を改めた。
「興味がある、だけではダメなの。間違った方向に行ってしまった時に、取り返しがつかなくなるから」
事情を知るものには分かる、その彼女の言葉の重み。
一同は押し黙り、神妙に頷いた。


「でもさ、マテリアがあるんだから大丈夫だよ」
 重くなりかけた空気を何とかしようと、ユフィが明るく言った。ジャーキーをテーブルに置き、マテリアを片手で空中に
投げては
受け止める。
「もしタッチミーにやられても、こうやってえいっと……あれ!?」
ユフィが手にしたマテリアが白く光った。
一直線に進んだ光の帯は扉へと向かい、ちょうどトレイにお茶を載せて入ってきた男を直撃する。
一同の悲鳴と、床に落ちて砕け散る食器の音が重なった。

「ヴィンセント!!」
「き、消えちゃった!」
 最初に行動できたのはシェルクだった。
一息に扉のそばへ駆け寄り、床にわだかまっているヴィンセントの服の中にある、ちいさなものを見つめる。
「お姉ちゃん…」
彼女らしくない気弱な声がその唇からこぼれた。
「カエルが出てきちゃったら、どうしよう」
「バカだな。魔力は時間の方向に向いてるって言っただろう」
シャルアは手早く食器の破片を避け、ヴィンセントが着ていたカッターシャツのボタンを片手で器用に外していく。
 現れたのは、生後間もない乳児だった。
仲間達がよく知る男の面差しを残した夕日色の瞳が、驚きに見開かれたままになっている。

「ヴィンセント!!」
ルクレツィアが乳児を抱き上げた。
「大変、やけどしてる。どうしよう!」
「急いで水で冷やして!」
「だってこんなに小さいのに、水なんかかけられないわよ!」
「じゃあ、ケアルだ!ユフィ、マテリアは?!」
「えー! 回復のマテリアなんて持ち歩いてないよ」
「それでもマテリアハンターか?」
「お姉ちゃん、それよりポーション探したら?」
「魔晄ポッドに突っ込んでみるか?」
「……あ、なんか、治ってきてるみたい」

 さすが乳児になってもヴィンセントはヴィンセント。驚異的な回復力は失われていないようだった。
小さな手足についた切り傷とやけどは、みるみる回復していく。

「…………」
一同はへなへなと床に座り込んだ。
ルクレツィアは自分の白衣を脱いで小さな赤ん坊の身体を丁寧にくるみ、抱きしめる。
「ごめんね、ヴィンセント。こんなになっちゃって。私がお茶くみなんか行かせたばっかりに、ごめんね」
「いや、それは違うと思うぞ」
同じく床に座り込んだまま、シャルアがユフィを見る。
「今のマテリア、もう一度使ってみたらどうだ。多分元に戻るんじゃないか?」
「そ、そうだね」
ユフィは握り締めたままだったマテリアをもう一度かざそうとして、凍りついた。
彼女の手から、涼しげな音をたててマテリアが崩れ去る。
一同の口から、今度は落胆の呻き声がもれた。



 白い閃光に視界が覆われた後、数瞬の間気を失っていたらしい。
元タークスの彼にしては随分な失態だが、室内に居たのは気心の知れた仲間たちだったし、何より敵意も殺意も全く
感じなかったのだから、警戒のしようがない。

目を開いた彼の視界は布越しに光を見るように、うすぼんやりとした明るさに包まれていた。しかも、目の焦点がよく合わ
ない。

『いったい、何が起きたんだ…?』
ヴィンセントは自分を取り囲んでいる邪魔な布を取り払おうとした。が、身体が思うように動かず、なんとも心もとない。
「カエルが……ったら、……しよう?」
すぐそばでシェルクの声がした。
『カエル?』
忌々しい記憶が、彼の頭の中を一回りする。
もしや、ユフィが悪戯でトードをかけたのか。しかし、それなら気配で分かるはずだ。
首をひねりながら自分の手を見たヴィンセントは、そこで凍りついた。
ぼやけた視界の中に浮かんでいるのは、ぽちゃぽちゃとした可愛らしい赤ん坊の腕。
『これは、まさか…』

「バカだな……魔力は………って言っただろう」
いきなり目の前が明るくなり、記憶より一回り大きなシャルアの顔が覗いた。驚きに彼の瞳が見開かれる。
「ヴィンセント!」
涙目になったルクレツィアの顔がシャルアに取って代わり、彼女の腕に勢いよく抱き上げられる。
まだ首の据わっていない赤ん坊の頭は思い切り後ろに振られ、彼の目の前には星が華やかに飛び散った。





「…ル、ルクレツィアさん、その子は、ヴィンセントの…? 一体、いつの間に?」
「違うんです、局長。この子はヴィンセント本人なの」
「は…?」
 リーブは力が抜けて、局長室のソファに座り込んだ。その彼の前に、バスタオルにくるんだ赤ん坊を抱いたルクレツィアが
立っている。その隣にはシャルアが腕組みをして並び、ユフィとシェルクも微妙な表情で同席している。

「すみませんが、私にわかるように説明してもらえませんか」
 リーブはハンカチを取り出して額の汗を拭き、思い出したように一同に椅子を勧める。
ルクレツィアがソファに腰を下ろし、そこで気付いたように、赤ん坊の顔に当たりそうになる胸のネームプレートを外した。
彼女の隣には、シャルアが陣取る。
「ゴンガガで発見された謎のマテリアを、我々は調査中だった。その最中に事故が起きて、彼が犠牲になったんだ」
「おそらく、時間を逆行する魔力を持ったマテリアだったと思われます」
姉の説明の後を引き取って、シェルクが続けた。
「その魔法を解除する方法はないのですか?」
「残念ながら、マテリアが消滅してしまいました。これ以上の調査は不可能です」
ルーイ姉妹の話を聞いて、リーブは目を白黒させる。
「困ったことになりましたね。彼には、来週出張してもらいたいところがあったのですが…」
WRO局長は言いながら、ルクレツィアの腕に抱かれて眠っている赤ん坊を覗き込んだ。
ぽやぽやとした柔らかな黒髪に、目鼻立ちのはっきりした顔つき。ふっくらしたほっぺはマシュマロのようにやわらかい。
普段のヴィンセントから想像もつかないが、今目の前にいる赤ん坊は、食べてしまいたくなるくらい愛らしかった。

 困惑の表情を浮かべていたリーブの目じりが下がり、口元が緩み、ふやけた笑顔になる。
「…かわいいですねえ〜」
半オクターブぐらい上がった声に、ユフィとシェルクが顔を見合わせる。
リーブは、ちょっと抱かせてもらえませんか、とルクレツィアの腕から赤ん坊を受け取った。首の据わらない乳児を上手に
支えて、
あやすようにゆったりと揺すっている。

「こんなバスタオルではかわいそうですよ。すぐにベビー服を手配しましょう。それと、ミルクやオムツも必要ですね」
「え、あの、局長…」
「大丈夫。私にまかせておいてください」

リーブはポケットから内線用の携帯電話を取り出すと、風変わりな物資調達の指示を伝えていく。
「……そう。それから、哺乳瓶とバスタブは、カームから取り寄せるようにお願いします。ええ、あそこのメーカーが一番
安心ですから」

今度はルクレツィアとシャルアが顔を見合わせた。
眉間にしわを寄せて首をかしげるルクレツィアに、シャルアは両手の平を上にして肩をすくめてみせる。
向かい側のソファに座ったユフィとシェルクは、ぽかんと口をあけたままだ。

「…おっちゃん、意外に子煩悩だねえ」
「それは、自分の実子に対して持つ感情ではないのですか?」
「ああ、うん、そうかも。でも、なんかそれに近いものを感じるじゃん」
「それより、何故子供用品のメーカーに、あんなに詳しいんでしょう」

四人の見ている前で、リーブは携帯電話を仕舞い、赤ん坊をゆすりながら室内を歩き回る。
「さあヴィンセント。もうすぐ、ちゃんとした服が届きますからね〜」
「あの、局長、そこまでしていただかなくても…」
「何をおっしゃいますか、水臭い。ヴィンセントのためです。費用は惜しみませんよ」
「いえ、あの、そうではなくて」
妙に上機嫌で赤ん坊を抱いて歩くWRO局長と、そろそろ返してくれませんかと後ろをついて歩く特別研究員。
魔法で一時的に変化しただけなので、育児用品一式を揃えなくてもいいと説明するルクレツィアの声は、リーブの耳には
届いていない。

「…シャルアさあ、おっちゃんと結婚して子供産んでやったら?」
「何だって?」
「ごめん。なんでもない」
「……ユフィ、勇気ありますね」
他の三名はただその様子を視線で追いかけるしかなかった。



聞き覚えのある深い声が、鼓膜だけではなく身体全体を伝わってくる。ヴィンセントはゆっくりと瞳を開いた。

少しはっきりしてきた視界の真ん中に見えるのは、ヒゲの生えた男の顎。
「……セントのためです。費用は惜しみませんよ」
上機嫌な男の声が、響いてくる。
『…リーブか』
妙に醒めた頭で、彼はそう考えた。
不本意に変身させられるのには、さすがにもう慣れてきた。
最初は魔獣で次はカエル。そう言えば、エアリスにミニマムを食らったこともあった。
今度は赤ん坊に逆行させられたということか。恐らく、あの奇妙なマテリアのせいだろう。
だとすると、魔法の効力が切れるまで待つしかない。自分自身の高い魔法耐性に頼るより他に術はなさそうだった。

 それにしても、男の硬い腕と胸に抱かれているのはすこぶる居心地が悪い。
ヴィンセントはルクレツィアの姿を求めて、視線をさまよわせた。
「ですから、局長、ベビーベッドまではいらないと思います…」
「でも、こんなに小さいんですから大人用のベッドでは固いでしょう?…ああ、来ましたね」
 室内が急に騒がしくなり、誰かが入ってきたようだ。
ヴィンセントは首を巡らそうとして失敗し、小さな苛立ちを覚えた。意識は成人のままなのに身体は赤ん坊。
思うように行動できず、もどかしいことこの上ない。

「さあ、ヴィンセント。服とオムツが届きましたよ。着替えてしまいましょう」
『なに?』
言われた言葉の意味を反芻して、ヴィンセントは驚いた。オムツだと?
片手にそれらしき包みを持って、いそいそとソファに行こうとするリーブの気配を察し、狼狽する。
『リーブ、ちょっと待て!』


 急にぐずり始めた赤ん坊を見て、リーブは首をかしげた。
「どうしました?」
「局長に着替えさせられるのがいやに決まっているだろう」
見かねたシャルアが赤ん坊を取り上げ、ルクレツィアの腕に返してやった。
抱きしめる方も抱きしめられる方も、同様に安堵の息を吐き出す。
「それは残念。孤児の世話をしたことがあるので、自分では上手いつもりなんですけどね」
「彼には“保護者”がいるじゃないか」
意外に赤ん坊好きの局長を、苦笑まじりになだめるシャルア。

ルクレツィアは局長室のソファにヴィンセントを寝かせ、まだぐずり止まない彼の視線をたどった。
そこには興味津々で覗き込む二人の少女。

「ごめんね。ちょっとはずしてくれる?」
「えー、減るもんじゃないのに」
「後学のために、見学はだめですか?」
「ダメダメ。勘弁してあげて」

 ルクレツィアはギャラリーを追い払い、にわかにできた“被保護者”の着替えにとりかかる。
バスタオルを開くと、それは紛れもなく生後1ヶ月程度の赤ん坊の身体だった。すべすべの肌は柔らかく、ぽちゃぽちゃと
丸っこいフォルムは愛らしいの一言に尽きる。これが、数十年後にあの無愛想な男に育つかと思うと、時の流れとは残酷
なものである。

 不安そうに手足を縮めて見上げるヴィンセントに微笑みかけ、ルクレツィアはそのほっぺたにキスをしてなだめてやる。
しかし、オムツをつける時のくすくす笑いと「カワイイ…」の一言が、彼を深く傷つけたのに気付かない彼女であった。
 チョコボのアップリケがついた水色のベビー服を着せられた赤ん坊は、苦行に耐える修行者のような表情を浮かべて、
ルクレツィアの腕に収まった。






「ストライフ・デリバリーサービスだ」
 荷物の配達人にしては無愛想な声の主が、局長室に入ってきた。リーブは仕事の手を止めて立ち上がる。
「ああ、クラウドさん。ご苦労さまです」
「…いわくつきの孤児でも、預かったのか?」
 クラウドは担いできた荷物をリーブに渡した。中身はもちろん、カームまで取り寄せに行った赤ん坊用のバスタブと
哺乳瓶。

そして、彼の視線は、様変わりした局長室の一角に釘付けになった。
 ソファを並べ替え、床に衝撃吸収用のマットを敷き、紙オムツやらタオルやら子供服やらが積み上げられたその場所は
簡易育児コーナーになっていた。
「クラウド、ごめんなさいね」
生後3,4ヶ月くらいの乳児を抱いたルクレツィアが、彼に歩み寄った。クラウドの魔晄の瞳が、じっと赤ん坊に注がれる。
「まさか、ヴィンセントの子…」
「じゃないわよ。本人なの」
あっさりと言われ、クラウドはよろめいた。

リーブの作ったミルクを入れた哺乳瓶を振りながら、ユフィが説明する。
「ゴンガガで拾ったマテリアが暴走してさ。まともに食らったヴィンちゃんがあかんぼになっちゃったってワケ」
「本当にヴィンセント、なのか?」
恐る恐る差し出したクラウドの指を小さな手でつかみ、赤ん坊はこっくりとうなずく。

「頭の中は大人のままみたいなの。その分、本人は大変かもしれないわね」
「元に戻れるのか」
「多分ね」

科学者にしては大雑把な答えに、クラウドはルクレツィアを見返す。

「今も、すごい勢いで成長してるのよ。一時間前に着られた服がもうきついんだもの」
「このスピードだと、一日が一年という換算になりそうです。ひと月ほどで元の外見年齢には達するかと」
「ヴィンちゃんの場合、最初から見た目とトシが違うんだもん。そう思うと大した問題じゃないよね」

 大した問題ではない、とまとめてしまっていいのだろうか。
混乱するクラウドをよそに、最初の驚きから早くも立ち直った女性陣は飄々と応える。彼はソファの上に積み上げられた
服をもう一度見やった。

なるほど、幼児から学童期の子供が着られそうな服まで取り揃えてある。

「だから、せっかく届けてくれたこれも、明後日くらいには使えなくなるわ。ごめんなさいね」
「いや、それはいいんだが…」
「大丈夫です。WROの託児施設で使ってもらえますよ」
粉ミルクを密閉容器にしまいながらにこやかに言うリーブに、クラウドは、そういう問題じゃないと口の中で呟いた。
どうもこの連中は子育てボケしているようだ。何か、大事なことを見落としているんじゃないのか?

「ま、そういうワケだから、当分子供時代のヴィンちゃんと楽しく遊ぼうってことになったの」
ユフィはリーブから渡された哺乳瓶を自分の頬に当てて温度を確かめ、ルクレツィアの腕から赤ん坊を受け取った。
「さあ、おいちいミルクでちゅよ〜」
連れ去られていくヴィンセントの瞳が、かつてのリーダーに救いを求めているように見えたのは錯覚なのだろうか。
「コーヒーが入りましたよ。お二人とも、こちらへ」
この期に及んで暢気な局長に招かれ、クラウドは心の中でヴィンセントに詫びながら背を向けた。



 鼻につく甘ったるい匂い。
元々甘いものは苦手な彼の目の前に、それは突然現れた。
ゴム製の乳首を口に押し付けられ、ヴィンセントは目を白黒させる。
『私に、これを飲めというのか?』
当惑して見上げた先には、ユフィの満面の笑みがあった。
「ほら、せっかく作ってやったんだから飲みなよ。早く大きくなれないよ」
『…悪いが、遠慮させてもらう』
授乳係の忍者娘は、口を閉ざし顔を背けて抵抗する彼に、何とかミルクを飲ませようと必死だ。
「この〜、ユフィちゃんの好意を拒むのか!」
「あの、バトルじゃないのですから…」
そばでたしなめるシェルクに構わず、ユフィは力技で授乳を敢行する。

ヴィンセントは口に押し込まれたゴムの塊と、喉に流れ込んできたぬるいミルクに白目をむいた。
甘い液体を止めようと噛み付いてみたが、何分この月齢では歯がまだない。歯茎と口唇ではゴムを潰すことができず、
むしろ流入量が増す結果を招いてしまう。
「そうそう、頑張って飲んで」
ユフィが安易に励ます。多分、好意なのだろう。数時間何も口にしていない赤ん坊にミルクを与えるのは、人道的にも
正しい。

しかし、彼にとってはもはやこれは拷問に近かった。
『ユフィ、頼む、もういい!』
彼の願いは通じるわけもない。一口二口は何とか飲み込んだが、それ以上は対応できず派手にむせこむ。
赤ん坊の身体では気管に入り込んだミルクを上手く出すことができず、ヴィンセントは窒息しそうになった。

「ちょっと貸してください」
シェルクはユフィの手から赤ん坊を受け取り、うつぶせに抱いて軽く背中を叩いた。
しばらく咳き込んだあと、ようやく息ができるようになった赤ん坊は少女の膝にくったりと横たわる。
『…こんなに、まずいものとは、思わなかった…』
ヴィンセントは口の中に残るミルクの味に辟易した。こんなものを何回も飲まされるのではたまらない。
何とか打つ手を考えなくては…。

「へー、シェルク、上手いじゃん」
「ネットから子育てに関する情報を集めました。でも、彼にそれが合うのかどうか…」
シェルクはヴィンセントを抱きなおし、その顔についた涙とミルクをタオルでそっと拭き取った。
咳のおさまったヴィンセントが、もの言いたげに元ツヴィエートの少女を見上げる。
夕日色の瞳と、魔晄の瞳がぶつかった。

『シェルク、試してみてくれないか…?』
赤ん坊の小さな手が、ぱたぱたとシェルクの腕を叩く。
「なに?何て言ってるのか分かる?」
ユフィが不思議そうに二人の顔を交互に見やった。
「…そうですね。やってみてもいいかもしれません」
小さく呟き、シェルクは自分の額をヴィンセントの小さな額にそっと押し当てる。
彼女の瞳にオレンジ色の光が宿った。



「あかんぼにそんなもの、飲ませていいの?」
「さあ。でも本人のリクエストですから」

 シェルクは小さな両手で哺乳瓶を支えている赤ん坊を見やった。その中身はエーテルターボ。
ヴィンセントは今度はむせもせず、全量を飲みきると、ぽいと哺乳瓶を投げ捨てた。もぞもぞしながら自力でうつ伏せに
なると、
両手を突っ張って頭を起こし、小さなげっぷをする。

「…なんか、また育ってるよね」
「もう、這って移動できそうですね」

二人の見守る前で、赤ん坊はルクレツィアの姿を求めて伸び上がり、バランスを崩して転がった。
きつくなったベビー服が腕の動きを妨げ、動きにくそうだ。
「よし、大きめの服にかえてあげよう」
ユフィの瞳が悪戯っぽく光った。



 エーテルターボを哺乳瓶で飲み干して、ヴィンセントは一息ついた。
予測通り、魔力を補充したことでマテリアの呪縛が緩んできている。月齢の進んだ身体は少し自由が利くようになり、
それと同時に服がきつくなった。
『ルクレツィア…』
彼は、リーブやクラウドと話し込んでいるルクレツィアの方を見上げた。
ソファの背につかまってかなう限り上体を起こすが、
赤ん坊の身体は頭が大きくバランスが悪い。そのまま、こてんと
ソファの上にひっくり返る。

自分の意のままにならない身体に腹を立てながら、彼は起き上がろうともがいた。

 その彼の目の前に、ユフィがぬっと顔を出す。
「ヴィンちゃん。その服きついでしょ。お着替えしようねー」
『……』
ヴィンセントは、不信感をあらわにして上目遣いにユフィを見やった。
 今のこの無力な状態で、彼女の支配下にいるのは非常に危険だと思う。過去に、エアリスやティファとともに酷い目に
遭わされた記憶がよみがえり、彼の頭の中では警報が最大音量で鳴り響いている。
「着替えはした方がいいと思います。ミルクで汚れてしまいましたし」
救いを求めてシェルクを見上げた彼だったが、彼女も着せ替え遊びの楽しみを放棄する気はなさそうだ。
小さな手足をつっぱって抵抗する彼にかまわず、ユフィは楽しそうにベビー服のスナップを外し始めた。
きつい服を脱がしてもらうのはありがたいが、彼女の場合それだけで済むとは思えない。あっという間にオムツ一枚の
姿にされ、
ヴィンセントはかつて味わったことのないほどの屈辱に打ちのめされる。

「いや〜、ヴィンちゃん、かっわいいねえ〜」
「赤ちゃんって、こんなにやわらかいものなんですね」
「うん、お肌なんてぷにぷにだよ〜」
『頼む、もう勘弁してくれ…』

そんな彼の気も知らず、少女たちは裸の赤ん坊を代わる代わる抱っこしてはしゃいでいる。

 すっかり憔悴した彼に追い討ちをかけるように、紙オムツを持ったユフィがニヤリと笑いかけた。
「ゴハンのあとだもんね。オムツも換えとこ」
『なに…?』
彼は赤ん坊らしからぬ驚愕と焦りの表情を浮かべた。
「アンタのおシメを換えてやったって、恩を売っとくと後々便利そうだもんね」
『冗談じゃない!』
赤ん坊は身体の向きをかえ、必死に這って逃げようとする。ユフィはそれを簡単に捕まえ、ひっくりかえした。
この危機的状況に反応したのか、赤ん坊の身体はまた一回り成長し、抵抗が激しくなる。
「いーじゃん!減るもんじゃなし、一回ぐらいオムツ換えさせなよ!」
『ふざけるな!絶対にごめんだ』
小さな足に顎を蹴り上げられ、業を煮やしたユフィは覆いかぶさってヴィンセントを押さえつけた。
「おいこら、ヴィンセント・ヴァレンタイン。あんまり抵抗すると、隊員たちのラウンジに連れてって晒し者にするゾ」
あまりにも悪質な脅迫に、ちいさな赤ん坊は凍りつく。
「多分、女性隊員たちが全員抱っこするまで、ここには戻ってこられないかもね」
『ひ、卑劣な…』
ヴィンセントは精一杯の力でユフィを睨み付けた。歯ぎしりしたいところだが、残念ながらまだ歯は生えていない。
「ユフィ、それはひどすぎませんか?」
「へーきへーき。これぐらいでヘコむようなタマじゃないから」
ユフィは悔し涙すら浮かべている相手に勝利の笑みを向け、オムツのマジックテープをはがして引き下ろす。
ヴィンセントは屈辱に震えながら両手を握り締め、目を堅く閉じた。


 次の瞬間、悲鳴をあげたのは赤ん坊ではなくユフィの方だった。
ひっぺがそうとしていたオムツを慌てて閉じ、後ろに飛び退る。
「何?!」
「どうしたんですか?」
驚いたルクレツィアやリーブ、クラウドが、ソファに駆け寄ってくる。その彼らに、ユフィは濡れた手を振って見せた。
「もう、信じらんない!! ヴィンちゃんたら水鉄砲まで使うんだから!」
顔面に向けて発射されたそれを、ユフィはずば抜けた反射能力に物を言わせ、手で防御したらしい。
「…さすが、こんな時でも百発百中ですね」
「シェルク!無責任に感心すんな!」
憤慨したユフィは手を洗いに行き、事情を察した一同は爆笑する。

「…水鉄砲か。なるほどな」
「男の子はね、オムツ外すと開放感でしちゃうことがあるようですよ」
「ミルクを飲んだあとでしょ?しかたないわよ」

頭の中は大人でも、身体の機能は赤ん坊だから、と一同は鷹揚に理解を示す。
だが、その思いやりの言葉が、よりいっそうヴィンセントを追い詰めた。
怒りと屈辱と情けない思いが、エーテルターボで
充実している魔力を増幅させ、不穏な気が彼を包み始める。

「濡れたままじゃ気持ち悪いわよね?今オムツ換えてあげるから」
赤ん坊を抱き上げたルクレツィアが見たものは、涙をためた夕日色の瞳が金色に変化していくさまだった。







「なあ、いい加減に機嫌をなおせよ」
クラウドは背を向けて黙りこくったままの相手に声をかけた。
「いつまでもこんなところにいても、仕方ないだろ」
ルクレツィアさんも待っているし、と言葉を続けると、相手は地の底から伝わってくるような暗い声で答える。
「…もう、二度と彼女には会えない」
「おおげさだな」
クラウドは肩をすくめた。

 二人がいるのは、
WROの屋上からさらに伸びる電波塔の頂上。
元の姿に戻ったものの、誰にも会いたくないと姿をくらましたヴィンセントが、引きこもりの場所に選んだところだった。
そのせいなのかどうなのか、WROは全ての通信機能が麻痺してしまっている。
ヴィンセントのいるところまで上っていけるのはクラウドしかいないというわけで、彼が説得役を押し付けられたわけだ。
どん底まで落ち込んでいるヴィンセントの心情を反映しているのか、空にはどんよりとした暗い雲がたれこめてきている。
徐々に風が強くなり、リミットブレイク後で一気に長くなったヴィンセントの黒髪は真横に拭き流されていた。

「あれは事故だ。もう忘れろ」
「…………」
「多分、しばらくすればみんなの記憶からも消えるさ」
「……どうだかな」
低い声でヴィンセントが呟く。着せ替え人形のように服を取り替えられ、そのたびに写真を撮られている。
その貴重なデータを
彼女たちが消去するとは思えない。
「神羅屋敷の地下に帰りたい……」
「やめておけ。あそこはWROの再開発予定地だと、リーブが言っていたぞ」
「…………」
再び黙りこくるヴィンセント。
ぽつりぽつりと大粒の雨が降り始め、やがてそれはしのつく大雨となって二人ともびしょ濡れとなった。
それでも、ヴィンセントは電波塔の上にうずくまったまま動かない。


クラウドはため息をついて、鉄骨に背をもたせ掛けた。
この頑固者を説得するには、まだしばらくかかりそうだった。







                                                     2007/7/15
                                                                   syun







考えてみると、ヴィンセント、すごく可愛そうです。すでに児童虐待です。なのに、とっても楽しく書けました(外道)。みわさんに「たくさん弄ってへこまして」と
許可をいただいたので、調子に乗ってこんなことになっちゃいました。
まあ、だれでも赤んぼ時代はあるわけですからね(笑)でも、意識は成人のままオムツ交換されたら、ヴィンセント立ち直れないだろうなあ(笑)
彼は落ち込むと何だか高いところで空を見つめているというイメージがあるので、鉄塔の上に登ってもらいました。リクエストSSなのに尾篭な話ですみません。
みわさん、どうぞご笑納くださいませ。えーと、クーリングオフも受け付けますので〜(笑)



present.