帰ってきて!
粉雪の舞い散る中を、その一行はのろのろと進んでいた。
見渡す限りの白銀の雪原。思い出したように激しい吹雪が襲ってくるが、今はどんよりと低く垂れ込めた雲からちらちらと
細かい雪の破片が降り注ぐ程度になっている。今のうちに今夜の宿となる洞窟か、風をしのいでくれる森を探さなくては
ならない。
先頭を行くのは鋭いジャベリンを手にしたシド・ハイウインド。いつもは額に上げているゴーグルを着けて、紫外線と粉雪
から目を守っている。
次に続くヴィンセントは、彼らしくもなく酒に酔っているかのようにふらふらと歩いていた。そのすぐ脇にぴったりと寄り添った
ナナキは、雪の吹き溜まりにはまりかけた彼のマントを咥えて引き戻す。
「ヴィンセント、そっちは危ないよ!」
「…ああ、すまない…」
礼を言いながらも引っ張られた方向によろけそうになるヴィンセントを、ナナキは慌てて肩で支える。
通常、雪の吹き溜まりや湖に張った氷の薄い処など危険な箇所を誰よりも早く察知する彼が、あまりにも無防備に歩を進めて
いて目が離せない。放っておくと突っ立ったまま眠り込んでしまうありさまだ。
大氷河をさまよううちに、三人は何度もモンスターとエンカウントした。
見た目は小さいがかなりしぶといアイスゴーレムと闘った際にリミットブレイクしたヴィンセントは、変身がとけた後異常をきた
した。外傷はないものの激しい睡魔に襲われ、歩くこともままならなくなったのだ。
もともと白皙の彼の肌は更に白さを増し、体温も下がっている。
毒や魔法を使う相手とは戦っておらず、そもそも仲間内で一番ステータス異常を起こしにくい彼だけが被害を受けるのは
おかしい。ガリアンビーストの因子の元となったモンスターに、冬眠の習性があったのかとも考えてみたが、それも推測の域を
出ない。
シドとナナキは首をひねりながらも、寝たきり老人に足を踏み入れそうなヴィンセントを連れて、格段にペースダウンした行軍
を続けているというわけだった。
立ち止まったシドは二人が追いつくのを待ちながら、ふところからタバコを取り出して火をつける。
「おう、立派な介助犬デビューじゃねえか、ナナキよ」
「オイラ犬じゃないよっ」
文句を言いながらも、ナナキが立っているのは立派に盲導犬か介助犬のポジション。
ヴィンセントの実年齢を考えると、あながち的外れとは言えないようだ。
シドは手にしたままのタバコのパッケージを相手に向けて差し出した。
「眠気覚ましに一服やってみるか?」
とろんとした夕日色の瞳でシド愛用のきついタバコの銘柄をしばらくながめた後、ヴィンセントは軽く首を振る。
「…いや、いい」
ポーションも興奮剤も効かないこの眠気に、タバコが効くとは思えない。それよりもナイフを貸してくれ、と彼はシドに向けて
手を出した。
「あん?何すんだ?」
「……眠気が…ひどくなったら…刺してみる…」
傷はすぐに治るし目も覚めるだろうという相手の頭を、シドは取り出したナイフの柄で容赦なく殴った。
「寝言は寝てから言え、この阿呆!」
「そうか…では、おやすみ…」
「だーっ!違うだろ!」
シドは自分よりも高い位置にある相手の肩をつかんで揺さぶる。
長い黒髪とマントは抵抗する気配もなくがっくんがっくんと揺れた。
「こんなとこで寝てたら、モンスターのメシになっちまうぜ!」
「侮るな。敵が来れば…闘える…」
「うそつけ!そんな寝ぼけ面しやがって」
熱血パイロットの怒声にも関わらず、眠そうに半ば閉じられた瞳は変化を見せない。
『あのシドの大声を聞いていて、よく耳が痛くならないよね』
ナナキはモメる二人を呆れて眺める。彼に劣らず鋭い聴覚を持つヴィンセントにとって、シドの怒号は相当うるさいはずだ。
それでも彼にとりついた睡魔は退散しないらしい。何が原因かわからないが、我慢強いヴィンセントでこの状態では、他の
メンバーだったら確実に昏睡に陥っているだろう。
ナナキの耳がぴくりと動いた。
風を切る翼の音。羽ばたきの感じからして大物の飛行型モンスターだ。ナナキは鼻を上げて風が運んでくる情報を確認する。
はたして、どんよりとした灰色の空と半ば一体化したような山の陰から、1匹のモンスターが姿を現した。
「シド、来た…!」
姿勢を低くし、二人を背後に庇うように身構えながらナナキが警告を発する。戦力として当てにできそうにないヴィンセントを
放り出し、シドはジャベリンを構えて振り返った。
やや小ぶりだが、それでも人間から見れば十分に巨大なレッサーロプロス。大氷河の制空権を握っているモンスターは高度
を下げながら様子を伺っている。
縄張りを侵したよそ者を撃退しに来たのか、それとも夕飯にちょうどいい獲物とみたのか。
「上等だぜ。こっちも腹は減ってらあ」
ジャンピングよりもやや味は落ちるが、たっぷりの量の肉は彼らの胃袋を十分に満たすだろう。
寒さで体力が奪われる分、しっかり食べることは重要だ。この気温なら冷凍にして携帯食料にしてもいい。
シドは焚き火で焙られ脂を滴らせる骨付き肉を想像して、ごくりと生唾を飲み込んだ。ナナキも同感らしく、グルグルと唸りな
がら舌なめずりをしている。
相手の不穏な気配を察したのか、モンスターは降下を中断してナナキやシドの得物の射程距離外ぎりぎりを旋回する。
「にゃろう…!」
吐き捨てたシドの肩に断りもなくライフルの銃身が乗せられた。ずっしりと重いそれがスナイパーCRだと気付いたシドは、
咄嗟に両耳を塞ぐ。その行動を待っていたかのように銃が続けざまに火を吹いた。
翼を撃ち抜かれたモンスターが、きりきり舞いをしながら少し離れた雪の斜面に落下する。
「やったぁ!」
ナナキがジャンプしながら嬉しそうに吼える。
眠気でライフルの狙点が定まらず、シドの肩を台代わりにしたヴィンセントは盛大なあくびをした。
「おめぇ、やっぱ腕が落ちてんな。何発かはずしたぜ」
「…すまない」
シドの皮肉にあくび交じりの謝罪が返る。眠くて目が開かなかったので羽音を頼りに撃ってみたというヴィンセントの応えに、
シドは空を見上げて頭髪をかき回しながらため息をついた。
「ま、それでも撃ち落したんだから、大したモン…?」
彼の賛辞は途中で疑問符付きに代わる。敵を仕留めたヴィンセントは睡魔との闘いを放棄した。長身が揺らいでシドの背中
にぶつかり、そのままずるずると雪原に倒れこむ。
まだ煙をあげている銃を手放さなかったのは、さすがと言っていいのだろうか。
「おい!こんなところで寝るんじゃねえ。立て!」
シドは雪の上に広がった赤マントの肩をつかんで揺さぶった。顔を半分雪に埋めた相手から、眠らせてくれ、と寝ぼけ声が
返ってくる。
「…先に行け…後から追いつく…」
「後っていつの話だ。20年後か?30年後か?」
おめぇの一眠りはスパンが長すぎんだよ、とシドはにべもなく却下する。
「あのさぁ、レッサーロプロス、あのままでいいの?」
かけ合い漫才のように延々と続く二人のやりとりにしびれを切らしたナナキが割って入った。モンスターは墜落の衝撃で目を
回しているだけで、まだトドメを刺したわけではない。
「晩ゴハンが逃げちゃうよ!」
「おっといけねえ」
シドはジャベリンを取り直して立ち上がる。
「しょうがねえな。オレ様たちが戻ってくるまでそこで寝てろ」
雪の中からわずかに持ち上げられた皮手袋の指先が、かろうじて返事の代わりを務めていた。
気絶したフリをしていたモンスターは、シドとナナキがスロープを登ってくると頭をもたげた。
どうやら相手をあざむくことはできなかったと察したらしい。撃たれなかった方の羽根をばたつかせて無理やりに舞い上がろうと
する。
「待てー!」
緩やかな斜面を駆け上り、毒を持った尾の一撃をかわしながら、ナナキは長い頚に喰らい付いた。
鋭い爪の生えた前肢でしっかり相手を抱え込み、後足で強烈な蹴りをかませる。
ばたつく翼と長い尾が凍った雪原を叩き、細かい雪煙を舞い上げていく。
頃合いを見計らって、頚にナナキをぶら下げて動きを封じられたモンスターの背中に、シドは得意のジャンプで飛び乗った。
「もらったぜ!」
ジャベリンがモンスターの背中に突き刺さる。レッサーロプロスは咆哮し、最後の力を振り絞って雪崩を起こした。
モンスターの足元から雪原が緩み、盛り上がり、重い地響きを立てて崩れ落ちていく。
「!!」
獲物に噛み付いたまま口の利けないナナキは、片目に動揺を乗せてシドを見上げる。
「うお、やべえ!」
雪崩よりも山側に居た二人には何の影響もないが、雪原で寝ていたヴィンセントは見る間に巻き込まれて姿が見えなくなっ
た。
シドは舌打ちするとジャベリンを引き抜き、トドメを刺す。レッサーロプロスはバウンドして二人と諸共に斜面を転がり落ちた。
「ナナキ、先に行け!」
突き立てた武器でバランスをとって巨体の下敷きにならないように踏ん張りながら、シドが叫ぶ。
動かなくなったモンスターを放り出して、ナナキは雪原を走った。
四つ足の獣の方が雪の上を走るには有利だ。鋭い爪をスパイク代わりに凍った雪原に突き立て、獲物から槍を引き抜くのに
手間取っているシドを置き去りに、ナナキは仲間が寝ていた地点にたどり着く。
「ヴィンセントー!」
仲間の名を呼び遠吠えするが、返事はない。
ナナキは泣きそうになりながら必死で周囲の匂いを嗅ぎまわった。
ヴィンセント本人の匂いは薄く分かりにくいが、彼が身にまとっている鉄と硝煙の匂いを追えば見つけられる確率は高いだろう。
この程度の雪崩で彼が命を落とすとは思わないが、雪の中で熟睡してしまったらさすがに危ない。
四季のある地域なら雪が溶けたあとひょっこり姿を現すかもしれないが、ここは永久凍土の土地アイシクルエリアだ。
コールドスリープ状態になって、また何十年も眠ってしまうかもしれない。
『オイラは寿命の長い種族だからいいけど、みんなにはもう会えなくなるよね』
そう考えて、ナナキはそういう問題ではなかったと首をブルブル振った。セフィロスを追う旅の途中で、彼らにはまだやらねば
ならないことが山のようにあるというのに、呑気に眠ってもらっても困るのだ。
「ったく、だからこんなところで寝るんじゃねえって言ったのによ!」
追いついたシドも、槍を雪に突き刺しながら捜索を始めている。雪や土砂に埋まった人を探す常套手段ではあるが、普通は
もう少し細長い棒を使う。それにシドの勢いでは遭難者にトドメを刺してしまいそうだ。
「シド、ヴィンセントを刺さないでよ」
「んなこと言ったって仕方ねえだろ」
ヤツならちょっとぐらい突つかれても死にゃしねえと断言するパイロットに、そりゃそうだけどと口の中でもごもご言いながら、
ナナキはふと不思議な気配を感じて顔を上げた。
少し離れた場所に、ちらちらと舞い落ちる量を増やした粉雪を背景にしてほっそりとした人影が立っていた。
白磁の肌に紫がかった銀色の長い髪。どうやら女性らしいその人物は、氷点下の寒さだというのにすんなりした手足をむきだ
しにして平然としている。
当然、人間ではありえない。
「…誰、だろう」
ナナキは鼻をひくつかせた。風下にいたのは有利だったが、大氷河の冷たい風は雪の匂いしか運んでこない。
彼女は雪の上に膝をつき、ゆうるりと愛しそうに雪崩を起こした雪の表面に手を当てた。
それは、まるで何かの儀式のようにも見える。
当惑した彼は頼れる男に声をかけた。
「シド、誰かいるよ」
「んあ?」
捜索に没頭していたシドは、汗で曇ったゴーグルを額の上に押し上げながら振り返った。
「なんだって?」
「ほら、あそこ」
しかしナナキが示した場所には、ただ風が巻いて雪の渦を作っているのみ。生き物の気配は全くない。
「誰もいねぇじゃねえか」
「あっれー?おかしいな」
ナナキは雪を蹴散らしながら白い女の居た地点まで駆け寄った。確かに何の気配も匂いも残っていなかったが、彼女が
手を当てていた雪の表面から嗅ぎなれた硝煙と革の匂いを嗅ぎ取って、赤い獣は喜びに飛び上がる。
「見つけた!シド、来て!」
強靭な前肢をフル稼働させて、ナナキは雪の中から赤いマントを探し出した。濡れそぼった長い黒髪に覆われた頭部を掘り
出すと、端整な貌は冷え切って蒼白になっていた。アイシクルの気温を考えれば無理もない。
「ヴィンセント、しっかりしてよぉ」
ナナキは仲間の胸や肩を爪をひっこめた肉球でぱたぱたと叩き、冷たい頬を温めるかのように何度も舐める。
獲物の骨から肉をこそげ取るザラザラの舌に舐められて、ヴィンセントが眉をしかめうっすらと瞳を開いた。
「気がついた?」
「…ナナキか」
仲間の姿を認め、色を失った唇がわずかに笑みの形を作る。
「ありがとう…だが……もう…」
途切れ途切れの言葉は最後まで紡がれることなく中断し、夕日色の瞳は再び閉ざされた。反対にナナキの瞳が見開かれる。
「もうって何?もうって…!ヴィンセントー!死んじゃやだよ!」
返事は返らない。半泣きになって必死に仲間の身体を雪から掘り出し、その胸に頭をぐいぐいと押し付けるナナキの背を、
追いついたシドがポンと叩いた。
「大丈夫だって。寝てるだけだ」
「え」
ナナキの隻眼がシドを見上げ、次に雪まみれのヴィンセントを見下ろす。その聡い耳はかすかな寝息を拾い上げた。
「眠気と闘ってるところに敵は来るわ雪崩に飲まれるわで、限界超えたんだろう」
安堵した彼は毛に付いた雪とともに杞憂を振り落とすように、ブルブルと身体を振る。
「なんだよー。びっくりした」
雪崩のせいで死んじゃったかと思ったと言うナナキの言葉にシドが小さく吹き出す。
「コイツがそんなタマかってんだ」
シドはゴーグルのベルトに挟んであったタバコを引き出し、1本を口に咥えて火をつけた。
「だが、荷物が二つになっちまったな」
ナナキはシドの視線の先にある獲物と、足元に横たわる仲間を交互に眺めて重さを計算し、耳とヒゲを垂らした。
雪が強く降り出した中で、シドとナナキは切り落としたレッサーロプロスの翼をソリがわりにして、食料とヴィンセントを運ぶ
という思わぬ重労働をすることになった。
長身のヴィンセントはにわか作りのソリからはみ出してしまうので、手足を丸めてマントで風呂敷包みにし、捌いたレッサー
ロプロスとともにロープで括りつけるという荷物扱い。
水気を吸ったマントに、大型ライフル、ガントレットと意外と重量のある荷物となった彼に、シドとナナキは運びながら悪口雑言
を投げつける。
どうせ本人は夢の中で聞いてはいないのだが。
広い雪原を渡り、たてがみのような形をした大岩のそばを通り抜け、ようやく見つけた洞窟の中で一夜の宿をとることが出来
た時には、二人ともへとへとに疲れきっていた。
それでも暖かい焚き火の炎と食事が彼らを癒してくれた。
ナナキは骨付き肉の大きな塊を平らげ、のんびりと胸や前肢の毛づくろいを始めた。
シドは獣脂の染みた皮を焚き火に放り込み、乏しい薪の代わりにしている。
火のそばでは、折りたたまれた窮屈な姿勢から解放されたヴィンセントが、相変わらず深い眠りの中に居た。
「このまま目覚めない、ってことはないよね…?」
「さあな。冬眠だったら温かいとこにつれてってやりゃあ目ぇ覚ますだろ」
これって冬眠なの?と首をかしげながらナナキはヴィンセントのそばに腰を降ろした。
雪崩に埋もれたせいもあるだろうが、すっかり冷え切っている仲間を温めようと寄り添い、その胸にあごを乗せる。
冬眠する動物は眠りに付く前にまんまるに肥えるものだ。それに脂肪の少ない生き物ほど寒さに弱いと聞いたことがある。
…もっとも、丸く肥ったヴィンセントなど想像もつかないけれど。
シドは尾に灯った炎の温度を上げて注意深く仲間のそばに置くナナキの様子を見て、口の端に笑みを浮かべた。
「火の番はオレ様が先にしてやっから、おめえが先に寝ろ」
「うん」
ナナキはおやすみの挨拶がわりに鼻先でヴィンセントの頬に触れると、再びその胸に頭を乗せた。
仲間たち一人ひとりを嗅ぎ分けるナナキの鋭い嗅覚でも、ヴィンセント本人の匂いは分かりにくい。銃やガントレットの金属の
匂いと、何よりも濃厚な弾薬の匂いが全てを覆ってしまう。身につけた服が革製というのも邪魔になる。
『何だか不思議な匂いなんだよね』
うつらうつらしながらナナキは考えた。
古代種の神殿やコスモキャニオンで感じた懐かしい匂いに似ているような気もする。ライフストリームの近くで感じる匂いにも
似ているが、それに触れると何だか怖いような、哀しいような気持ちになる。
あえてそれに名前をつけるとしたら「孤独」とでも言うのだろうか。
どちらにしろ、普通の人間の匂いとはかけ離れているのは、彼の中に複数の魔獣が宿っているせいなのかもしれない。
『それでもオイラ、ヴィンセントが好きだよ…』
目が覚めるまで、ちゃんとオイラとシドが守るからね、と心の中で呟き、ようやく温まってきた彼の身体を感じながらナナキは
すとんと眠りに落ちた。
冷たい風が鼻に触れて、ナナキはくしゃみをして目を覚ました。
焚き火の火が小さくなっている。見張り番のシドはジャベリンを抱えて氷壁にもたれ、寝入ってしまっているようだ。
ちょうど目が覚めたし火の番を代わろうと、積み上げた薪をくわえるために身を起こしたナナキは、洞窟の入り口に人影を認め
て動きを止めた。
『また、あの人だ』
紫がかった銀髪にほっそりとした姿。わずかに身体を覆う蒼い短衣以外には何も身につけておらず、素足で雪の上に立って
いる。前は距離があったのでわからなかったが、水のように透明な瞳を持つ顔は美人の部類に属するだろう。
洞窟の気温が更に下がったように感じて、ナナキは警戒する。じっと仲間に注がれる視線に、雪原で見かけた光景が脳裏に
甦る。あの後から目覚めなくなったヴィンセント。
もしかしたら、彼の冬眠はこの人のせいなんじゃないだろうか?
白い女は洞窟に一歩踏み込んで優雅に腕を差し伸べる。その指先から奇妙な波動が伝わり、深い眠りに落ちていたヴィンセ
ントがかすかに呻いた。それを見たナナキは毛を逆立てて威嚇の唸り声を上げる。振り立てた尾の先の炎が熱と明るさを増す。
「近寄るな!ヴィンセントは渡さない」
彼女はナナキに視線を向け、手のひらを口元にそえて得体の知れない氷のブレスを吐き出してくる。
ナナキは仲間を庇うように立ちはだかりファイアを放った。空中で炎と氷がぶつかり合い、水蒸気がぶわっと広がる。
「…んあ?おい、何だ何だ!」
魔力の発動にシドが飛び起き、ジャベリンを手に身構えた。火の攻撃にたじろぎ、新手が加わったのを見た女は、すっと後退
する。色のない透明な瞳で2人を見渡し、最後に眠ったままのヴィンセントに視線を向けると、余裕すら感じる微笑を浮かべて
吹雪の中に溶け込んでいった。
「ふん、夜這いかけに来るたぁ、いい度胸じゃねえか」
シドは消えかかっていた焚き火に薪をくべ、ついでにタバコに火をつけると深々と吸い込んだ。吐き出す煙の勢いがいつも
より強かったのは気のせいだろうか。
「シド、今のは?」
「雪女、だろうな」
アイシクルロッジのパブで噂を聞いた、と、シドはそのパブで仕入れてきたウィスキーの小瓶の封を切った。
再びぱちぱちと炎を上げ始めた焚き火が洞窟を温めるのを待てないように、ぐっと一口あおる。
雪女が現われてから洞窟の温度が急激に下がったことを思い出したナナキが、慌ててヴィンセントの上に覆いかぶさり彼の
体温が下がるのを防ごうとする。
「その雪女が、何でヴィンセントにかまうんだろう」
「さあな」
こんなところにいりゃ退屈して、男の一人もひっかけたくなるだろうさ、というシドのオヤジジョークにナナキは呆れて下あごを
下げた。その彼のヒゲをヴィンセントの静かな寝息が揺らし、隻眼が端整な貌を見下ろす。
仲間と共にいてもどこか孤独の翳を引きずる彼に、同じ孤独な存在として惹かれた雪女が、自分の住む世界へ彼を繋ぎとめ
ようとしたのかも知れない。
『でもダメだよ。ヴィンセントはオイラたちの仲間なんだからね』
孤独なのは種族が絶滅して最後の一匹になってしまった彼も同じ。子供がお気に入りの玩具を他人に取られまいとするように
ナナキは眠るヴィンセントを抱え込む。
シドは洞窟の入り口に歩み寄り、煙を吐き出しながら白々と明るくなってきた空を眺めた。
どうやら吹雪は止んだようだ。
「だが、正体が割れりゃ対策は自ずと知れるってもんだ」
熱血パイロットは仲間を振り返ってニヤリと口端をゆがめる。
「メシ食ったら出かけるぞ。朝ブロで寝たきり男を叩き起こしてやるぜ」
パブに行かなかったナナキは意味がわからず、きょとんとしながらもうなずいた。
「……それで、ここに飛び込んだというわけか」
外したガントレットを逆さまにしながらヴィンセントが言った。ガントレットからは入り込んだ湯がざぱーとこぼれ落ちる。
「ああ。パブでここらに棲む雪女はえれぇ温泉嫌いだって聞いてたんでな」
シドは首にいつも巻いているスカーフを手ぬぐい代わりにし、すっかりくつろいでいる。
早朝に洞窟を出て雪原をさ迷い歩いた結果、シドとナナキは昼ごろに湯気を上げる双子の池を発見した。
マントとホルスターははずしたものの、複雑な構造のヴィンセントの服を脱がせるのが面倒になったシドは、そのまま彼を抱え
て温泉に飛び込んだのだった。
ヴィンセントが湯に沈んだ時、ナナキの聡い耳は雪女の呪詛がかすかに空気を振るわせたのを聞き取っている。
呪縛が解かれ、温泉で温められた囚われ人が瞳を開いたのは程なくしての事だった。
「うぉー、いい湯だぜぇ」
「…その点に異論はないが」
濡れた革の服やブーツを苦労して脱ぎ、雪の上に放り出しながらヴィンセントがため息をつく。
シドが雪原にばらまいた服は、ナナキが拾い集めて焚き火のそばに並べてあった。
「で、いつおっかない別嬪さんにナンパされたんだ?」
「?」
湯に濡れて首や肩に張り付く長髪をうっとうしそうに束ねていたヴィンセントが、首をかしげる。
寒さを苦にしないナナキは温泉に入らず、そばの雪の上に座って服の番をしながら話しかけた。
「雪女にどこで会ったの?オイラたちずっと一緒だったけど、見なかったよ」
「さあ。記憶にない」
ナナキが言う風体の女には会ったこともないし、闘った覚えもないとヴィンセントは答える。
シドが手ぬぐい代わりのスカーフで額の汗を拭った。
「リミブレした隙に取り憑かれたってとこか。ま、陰気な者どうし、気があったのかもな」
「悪かったな」
憮然とした彼の瞳は、そばで嬉しそうにしている獣を映して和らぐ。
「…だが、眠りの底に引き込まれそうになるたびに、ナナキの呼ぶ声が聞こえた」
「オイラの?」
隻眼に無邪気な喜びを現したナナキにヴィンセントはうなづき、それがなければ戻って来られなかっただろうと告げる。
「…ありがとう」
湯の中から伸ばされた手に頭をくしゃくしゃと撫でられ、ナナキは嬉しそうに喉を鳴らした。
感謝の言葉もそうだが、彼の手が暖かいことが何よりも嬉しい。その手に耳や頬をこすりつけ、それでも飽き足らずに何度も
ざりざりと舐める。
「おいおい、ヤツの舌で舐められると皮膚が剥けちまうぜ」
「かまわない」
ヴィンセントは夢中になって喜びを表現するナナキに目を細めている。
この無愛想なガンマンは意外なことに、子供と動物には滅法甘い。
シドは肩をすくめて両腕を頭の後ろで組み、ま、勝手にやってろとひとりごちるのだった。
空には薄日が差している。次の吹雪がやってくる前には、服も乾きそうだ。
大氷河の中に奇跡のように湧いた温泉をしばらく楽しんでも、悪いことはなさそうだった。
syun
2008/8/30
以前に罰ゲームつきのバトンをむちゃごろぅさんから頂いたのですが、忙しさにかまけてうっかり放置。反省を込めて貢物を捧げさせて
いただきます(笑)ブログの中で「ナナキが好き」と仰っていたので、ナナキ&ヴィンセントという獣コンビにしてみました。(?)
動物好きの私としましても、ナナキの描写は楽しかったです〜。多分彼はネコ科系大型動物だと思うので、戦い方はライオンがモデル。
でも日常の所作はウチのパピヨンがモデルなので、どうも小型犬風です。猫の舌はざらざらなので、舐められると痛いです。うれしいけど。
勝手にやってろなナナキとヴィンですが、つつしんでむちゃごろぅさんに差し上げたいと思います。ご笑納くださいませ〜。