とりあえずの旅の目的はセフィロスの追跡であり、モンスター狩りではない。
大物のモンスターを発見しても不必要な戦闘は避け、先を急ぐのがクラウドの方針だった。
ニブル魔晄炉近くの洞窟はくみ上げた魔晄エネルギーを村に送るためのエネルギーパイプがむき出しになっていた。
そして神羅の備品コンテナがいくつも放置されており、中にはまだ使えるポーションや防具が埃を被っている。
「こいつはいいや。ありがたく使わせてもらおうぜ」
「使用期限はチェックしろよ」
ほくほく顔のバレットに釘を刺しながら、クラウドはヴィンセントが周囲の気配を窺っているのに気付いた。
「近くにいるのか」
「…かなりの大物がな」
パーティの索敵器官のような二人が周囲を警戒し始めると、他の面々も緊張を強める。その中にあってユフィは別だった。
神羅の備品なら盗んでも良心は傷まないし、ましてこんなところに放置してあるのだ。使ってくれと言っているようなものだ
ろう。エリクサーをバックパックに押し込んで満足げに周囲を見渡したユフィの瞳がきらりと光った。
洞窟の中は急な段差ができており、そのはるか下に紫色の輝きを見つけたのだ。
「あれって、もしかして…」
マテリアハンターの血が騒いだ。あの色は合成などでは作れないレアな独立マテリアの色だ。ユフィは素早く周囲を見回し
距離を目で測った。
「ユフィ、どこ行くの?!」
聡いナナキが声を上げる。
「マテリアみ〜っけ!アタシんだからね、誰にもやるもんか!」
彼女は身軽に岩棚や取り付けられている梯子を足場にして洞窟の地面へ飛び降りた。紫色に光るマテリアを拾い上げ、
誇らしげに掲げてみせる。
「『カウンター』のマテリア、ゲッ…トぉ……」
勢いよく振り向いた彼女の目の前には、緑色の巨大な蜘蛛のようなマテリアキーパーが前肢を振り上げていた。
「ユフィ!!」
気付いたティファとバレットが降りられそうな経路を探し、手近な梯子へと走る。
「このアタシをなめんな!」
ユフィは巨大なモンスターの第一撃を十字手裏剣で弾き返したが、相手の力に押されてよろめいた。
反撃の体勢を作れないうちに次の触手が伸びる。その時、20メートル近い崖を一気に飛び降りてきた影が二つ、彼女と
モンスターの間に割って入った。振り下ろされた巨大な爪は鈍く光るバスターソードが受け止め、逆に切り上げる。
緑色の体液を飛ばしながらモンスターが下がった。その傷口を正確に狙ってクイックシルバーが銃弾を叩き込む。
追い討ちをかけるように背後からガトリングガンの砲火がモンスターに降り注いだ。
本来ならばこれは無用の戦闘のはずだ。だがこうなった以上マテリアキーパーを斃さないことには、クラウド、ヴィンセント
ユフィは出口にたどり着けない。モンスターより洞窟の出口側にいるバレット、ティファ、エアリス、ナナキにとっても同様だ。
ちなみに戦闘要員ではないケット・シーは、荷物番をしながら一番後列で震えている。
「しぶといね」
リーチの届かない相手に向かおうとせず、背後にエアリスを庇っていたティファが表情を歪める。左前脚がクラウドとヴィン
セントの攻撃で動かせなくなっているが、敵の戦意は衰えていない。
ユフィが陽動で手裏剣を飛ばした。それを追ったモンスターの片目をヴィンセントが撃ち貫く。さすがに怯んだところへクラ
ウドが大剣を振り上げて飛び込んだ。
「やった!」
ナナキが吼える。甲羅と肉を断つ鈍い音が響いて、緑色の噴水がモンスターの背中から吹き上がる。
クラウドの一撃が急所に入りマテリアキーパーの動きが鈍くなった。弾を撃ちつくしたクイックシルバーをホルスターに突っ
込み、ヴィンセントは精神を集中させる。
一気に決着をつけるべく彼が放ったのは共に闘っていた一同が思わず飛び退るほどの威力を持ったファイアだった。
「…今の、ファイガ?」
「違うだろ、あのマテリアはまだそこまで育ってねえはずだ」
とどめを刺したと感じたティファとバレットが緊張を緩めて囁きあう。
だが次の瞬間に彼らが見たものは、炎のエネルギーを吸収して勢いを盛り返したモンスターの姿だった。
警告を発するまもなく、マテリアキーパーの巨大な爪が一番近くにいたユフィを真っ直ぐに狙う。反射的に武器を構えた
忍者娘の動きは一瞬遅れた。
殺られる…!
思わず目を固く閉じた彼女を何者かが突き飛ばした。転がりながら間合いをとって振り返ったユフィの目の前に真紅の霧が
吹き上がる。
「うっ…そ…ぉ!?」
マテリアキーパーとユフィの間に飛び込んで彼女を庇ったヴィンセントは、長大な爪に背後から串刺しにされていた。
抵抗しようとする動きは弱々しい痙攣にしかならず、振り上げられたガントレットはすぐにだらりと垂れ下がった。
脊椎や肋骨を砕いて胸から突き出した爪はあふれる鮮血に染まり、足元に不吉な赤い湖を作り上げつつある。
「ヴィンセント!」
エアリスが悲鳴のような声を放った。その隣でティファも拳を構えたまま棒立ちになっている。バレットがガトリングガンを
放とうとするのをナナキが飛びついて止めた。彼の命中率ではヴィンセントに弾が当ってしまう。
「くっそぉ!」
歯軋りしながら投げたユフィの手裏剣はマテリアキーパーの残っていた目を潰した。激昂したモンスターは触手を振り回し
ヴィンセントの身体は爪から外れて洞窟の壁に叩きつけられる。一瞬遅く、飛び込んだクラウドのバスターソードが爪の
根元を切り飛ばした。
「ヴィンセントっ!」
自分を庇った相手に駆け寄ろうとするユフィをクラウドが叱咤する。
「構うな。敵に集中しろ」
剣を構えたクラウドの前ではモンスターが奇妙な動きを見せていた。威嚇して振り回していた爪を下げ、全身を撓めて力を
溜めている。次に大技が来ると考えた方がいい。
前列にいた仲間たちがモンスターに集中していたため、息絶えたと思われていたヴィンセントの変化を見たのはエアリス
のみだった。
血溜りの中に倒れた身体が金色の光をまとい始めた。カッと見開いた瞳は体内のエネルギーを反映し金色に輝いている。
徐々に強くなる光の中で人の輪郭は形を失い、戦闘中の仲間が振り返るほどの閃光の後に現れたのは魔獣の姿だった。
銀色のたてがみ、両前肢の長い爪。狼のような長い鼻面には敵意を示す皺が寄り、鋭い牙をむき出しにしている。
腹にずしりとくるような獰猛な咆哮とともに、炯炯と光る金色の瞳が洞窟内にいる生き物をじろりと見渡した。
「危ない!下がって」
自分でも何故だかわからない確信に押されてエアリスは叫んだ。武器を持って敵対すればこの魔獣は確実に襲ってくる。
身を引いた一同には構わず、魔獣は真っ直ぐにマテリアキーパーに襲い掛かった。
術のために力を溜めていたモンスターは不意を突かれたと言えるかもしれない。刺し殺したと思っていた人間が魔獣に
変身して襲ってきたのも初めてだろう。
防御のために振り上げた爪は敵の前肢の爪ですっぱりと切り裂かれ、モンスターは二本目の触手を失った。次に右前脚が
更に左後脚が魔獣の爪でずたずたにされ、バランスを失って地面に腹をつける。
人外の存在同士の死闘に他の者は手出しする隙もない。
「あれ、アイツ、だよな…?」
「多分…」
バレットの問いにナナキは洞窟の一角を見やった。大量の血痕が残されているが、そこに倒れていた男の姿はない。
変身してもヴィンセントの記憶は残っているのか、魔獣は魔法を使おうとせず爪と牙でモンスターと闘った。
瀕死の相手が放ってきた電気系の攻撃魔法もあっさりとやりすごし、四肢の爪を全て切り落として無力化させる。洞窟の地
面や岩壁にはモンスターの緑色の体液や食いちぎられた破片がふんだんに飛び散った。最後に図体の割合に小さな頭部
を魔獣の牙で噛み潰され、ニブルヘイム魔晄炉の主となっていたマテリアキーパーは二度と動かなくなった。
中途半端に武器を構えたまま見守っていた一同に安堵の色はなく、むしろ新たな戦慄が走る。
牙からモンスターの体液を滴らせながら銀のたてがみを持つ魔獣が振り返った。正面に立つクラウドは静かに剣を構える。
「刺激しちゃダメ。ゆっくり下がって」
「難しいこと言うな」
エアリスの言葉に苦笑しながら元ソルジャーは切っ先を下げて敵意のないことを示したまま、ゆっくり後退した。
魔獣は低く威嚇の唸り声を上げているが攻撃するか迷っているようだ。
パーティの全員が武器を降ろし、腕を垂らしたまま緊張感に耐えた。
何時間にも思えたが実際には数分だったのだろう。やがて魔獣は動きを止め、光をまとったその輪郭が崩れ始めた。
最初の変身を見ていたエアリスには録画した映像の逆回しのように見えたかもしれない。
金色の光がスパークした後に現れたのは、地面に片膝をついて顔を伏せたまま荒い息をつく男の姿だった。
モンスターの爪に貫かれた胸の傷は何もなかったかのように治癒している。それでもすぐに立ち上がれずにいるのは、精神に
強いダメージを受けたからのようだった。
もしかしたら変身して闘ったのはこれが初めてなのかもしれない。
「…化け物」
唸るように呟いたバレットの脛を隣にいたユフィが蹴飛ばした。
「神羅屋敷にあった宝条のメモ、覚えてる?」
ティファがクラウドに囁いた。
「あれに書いてあった生体学的な改造ってこれのこと?」
「ヴィンセントも人体実験の被害者っていうわけ?」
ナナキもクラウドを見上げる。実験サンプル扱いされたことのあるナナキの隻眼には共感の光が宿っている。
「俺に聞くな。わかるわけないだろ」
一同が見守る中でヴィンセントはようやく立ち上がった。身体には傷ひとつ残っていないのに顔色は青ざめ、憔悴している
ように見える。
奇妙な沈黙がしばらく続いた。
「変身と超回復力。あんたが地下に篭っていた理由のひとつはそれか」
遠慮や配慮を小気味よいほど省いた質問がクラウドから放たれた。彫像のように立ったままのヴィンセントが僅かに身じろ
ぎする。
「そして宝条を探す理由もそれだな?」
全員の視線がヴィンセントに注がれた。
罪を償うと自らを幽閉していた彼が突然行動を起こしたきっかけとなったキーワード。メタモルフォーゼの人体実験のサン
プルにされた復讐。そう考えるとヴィンセントがこのパーティに同行している理由は納得がいく。
神羅を憎み、復讐を誓っているバレットにも淡い共感の気持ちが湧いた。
だが、彼らの気持ちを裏切るようにヴィンセントの瞳は冷めた光を湛えていた。
「…他人に話すことではない」
一同は鼻白んだ。一時は命を落としたかと心配し、魔獣となって復活したのも神羅の実験のせいと同情した気持ちが、冷水
を浴びたように冷めていく。
ここまで共に戦いながら危険な旅路を辿り、仄かな仲間意識が芽生え始めたところへ「他人」の一言は重く響いた。
「てめぇ、その言い草はねえだろう」
怒りを押し殺した低い声でバレットが唸った。制止しようとするティファを振り払い、ずいと一歩前へ出る。だが彼の口から
致命的な罵声があふれる前にリーダーの声がその場を仕切った。
「確認しただけだ。詮索する気はない」
クラウドは仲間たちを見回してケアルかポーションを使うよう指示した。この洞窟にはまだドラゴンやダブルブレインなどの
厄介な敵がいる。
「魔晄炉で一泊して山を降りるぞ」
「そこは安全てわけ?」
危険は冒したものの天然のマテリアを拾って浮き立った声のユフィがたずねた。
「この山に安全な場所なんかない。雨露がしのげるというだけのことだ」
バスターソードを背に負ってクラウドが歩き出した。エアリスとティファを先頭にパーティメンバーがその後に続く。
しんがりはヴィンセントというのは暗黙の了解だが、他のメンバーとの距離がいつもより開いていたのは仕方のないことと
言えた。
だが、空になったマガジンを交換して銃をホルスターに収めた彼の前に、すばしこい影が駆け戻ってきた。
「………」
ヴィンセントの前に立ちはだかった忍者娘はいきなり彼の胸を両手で撫で回した。それでも納得できない様子で背後に回り、
背から腰まで傷や血痕がないか確認し始める。
唐突な行動だったがその生真面目な表情から相手の意図を読み取ってヴィンセントはされるがままだ。
「…あんなでっかい穴、よく塞いだね」
ユフィの大きな瞳は驚きと賞賛の両方を湛えて長身の男を見上げた。
「他人とか言うくせに、何で助けたのさ」
頬を膨らませて両手を腰に当てた彼女の口調にはやや挑戦的な響きがある。返事は恐ろしく無機質なものだった。
「炎を吸収するモンスターにファイアを使ったのは私のミスだ」
「だからって盾になって死ぬか?普通」
「あいにく普通ではないのでな」
自分自身のことを言っているとは思えないほど乾いた口調に、ユフィは小さく身震いした。
マントの高襟と厚く巻いたバンダナ、それに長い黒髪に隠されて相手の表情はよく読み取れない。だがここで怯むようでは
ウータイの忍の名がすたる。
「ま、とにかく助けてくれてアリガト」
礼を言うにしてはぶっきらぼうな口調で言い放った後、ユフィは自分の台詞に照れたように身を翻した。
無表情で見送るヴィンセントの姿はそれと対照的だった。
ニブル魔晄炉の入り口に近い壁際にもたれて座り、ヴィンセントは薄く開けた扉から外を眺めていた。
夜半すぎから細かい霧雨が降り始めている。丸二日余り眠らないままモンスターと闘い続け最後にはリミットブレイクまで
したせいか、さすがに疲れを感じた。まどろむ程度の睡眠で日中の活動に耐えられる反面、深い眠りに落ちたら何年眠って
しまうかわからない。
睡眠や食事、排泄などの生理的なサイクルが人間だった頃とは大きく変わってしまっているのを、おぼろげながら彼は感じ
ていた。ニブルヘイムの宿や野営では勧められるままに食物を口にしたが、彼自身は空腹を覚えたことはない。
自分がいつ眠気を催し、空腹を覚えるのか予測がつかないというのは奇妙な感覚である。
それに。
ヴィンセントは右手を自分の胸に当てた。ユフィに撫で回された時に自覚した通り、そこに開いていた大きな穴は跡形も
ない。だが、背中に突き刺さったモンスターの爪に背骨を砕かれ、心臓と左肺を貫かれた感覚はまだ身体に残っていた。
息ができなくなり大量失血のために失神したのも覚えている。
尋常ではない体験を冷淡に回想できるのは、これが初めてではないからだ。
かつて神羅屋敷で自分に向けた銃の引き金を引いたのは1度や2度ではない。その度に甦ることに絶望し、最後には自ら
を棺桶に幽閉することを選んだ。
『その償いが眠ること?それって……なんか変』
考え込むような古代種の娘の声が耳に甦る。ヴィンセントの口唇が自虐的な笑みを浮かべた。
死ぬことが出来るなら、死んで償えるのならその方がどれほど楽か。
時が止まるということは、過去の苦い記憶が薄れることなく何度も再生されるということだ。いつ終わるとも知れぬ永劫の
時間を後悔と自責の念に苛まれながら、無為に耐える方がはるかに辛い。だが、これこそが自分に与えられし罰。
彼らには理解できないだろうし、する必要もない。
負の螺旋階段を舞い降り始めた彼の思考は、ふと古代種というキーワードで立ち止まった。
最後の古代種。
エアリス・ゲインズブール。
ケット・シーの言葉を額面どおりに信じたわけではないが、パーティメンバーの様子を見ているとあながち嘘でもなさそう
だった。戦闘には不慣れな素人にしては彼の魔力の高さを見抜くなど、不思議な能力も持っているようだ。
そして何よりも彼女の父の名前が彼の胸をざわつかせる。
ガスト・ファレミスがプロジェクトを脱退して退社する、と言い出した時、彼は科学者たちに負けぬほどの熱意で慰留した。
プロジェクトへの影響だけが理由ではなく抹殺されてしまうのがわかっていたからだ。
表向きは円満な退社に見せかけて、すぐに追っ手がかかる。若しくは一生監視がついて回る。
神羅製作所はその頃から陰惨な裏の顔を持っていた。
その実行部隊であるタークスに所属していたからこそ彼は言葉を尽くしてガストを説得しようとしたが、最後は本社からの
命令で手を引かざるを得なかった。
その頃、ジェノバは本当に古代種か否かで科学者たちの間には論争が起きていた。動物実験の段階で、ずば抜けた運動
能力、高い治癒能力などが確認され、古代種復活へいっそう力が入った所だった。
それに水をさすようにガスト博士が言い出したのだ。ジェノバは古代種ではない、と。
科学者たちの分裂とジェノバへの疑念をヴィンセントは本社への定期報告に載せていた。だが本社は沈黙を守り、ガスト博士
の辞表は受理された。
今にして思えば、ジェノバが古代種であろうとなかろうとその能力値の高さは新しい戦士の開発に使える、という判断があっ
たのだろう。そして真の古代種の捜索のために、わざとガスト博士を野に放って泳がせたのだ。
プレジデントの読みは当たり、ガスト博士は見事に古代種を復活させた。古代種の末裔と自分の間に娘をもうけることによ
って。
ヴィンセントは重いため息をついた。
ならば、ジェノバ・プロジェクトに身を捧げた彼女の犠牲は何だったのか。
ガスト博士が去った後、研究を引き継いだ宝条とルクレツィアは、もはや引き返せない道を進むしかなかった。
ジェノバが古代種であるという仮説にしがみつき、妄信することで自我を保っていたのだろう。その結果、正体の分からない
ジェノバ細胞を妊娠初期の胎児に殖え込むという、無謀な行為に出たのだ。
そして、彼はそれを止められなかった。
膨大な予算と時間とエネルギーを注ぎ込んだ神羅の一大事業は、古代種どころか星に仇なす者を創りあげた。
エアリスの存在を知った今では、ジェノバ・プロジェクトは滑稽で醜悪な喜劇のようにすら思える。
一体、何をしていたのだろうな、我々は。
長い眠りのうちに枯死しつつある心が、また一部ひび割れて崩れていくのを感じながら、ヴィンセントの端整な貌は自嘲の
笑みを浮かべた。
エアリスは意識に触れてくる冷たく重い何かに気付いて目を覚ました。
声にならない慟哭を凝縮して抑圧したらこんな感じになるのだろうか。まるで鉄の棒を飲んだかのような重い痛みが、咽喉
から鳩尾のあたりにずしりと沈殿している。
これは一体誰?
彼女は自分の肩を抱きしめながら耳を澄ませた。
星の声は大勢の人がざわめいているように聞こえる。それは星の意思が単体ではなく集合体だからなのか、それともライ
フストリームに還った命の声が混入したせいなのかはわからない。
しかし、いつも聞こえている星の声とは別に、身喰いするほどの苦しみを抱えた誰かの意識が伝わってくる。
否、数日前からその気配には気付いていた。
苦痛を表現することも自らに許さないような冷徹な意志が僅かに緩み、後悔と悲嘆が零れ落ちてきたのを捉えられたのは、
気になっていたからだろう。
エアリスはそっと寝袋から抜け出した。うつらうつらと舟を漕いでいた大男がハッとしたように頭を起こし、すぐに警戒を解く。
「何だ。トイレか?」
「そんな大きい声で言わないで」
唇の前に人差し指を立てて見張り番をたしなめ、エアリスは眠っている仲間たちを踏まないように注意しながら気配を追った。
闇に閉ざされていた魔晄炉のホールは夜明け直前のうすぼんやりとした光をたたえていた。出口に近いせいかひんやりとした
空気が肌をなぞっていき、エアリスは思わず自分の肩を抱きしめた。
外部へ通じる扉近くの壁際に、長身の男がマントを夜具代わりに掛けた身を横たえている。彼女は足音を忍ばせてそっと
傍へ歩み寄った。
いつもはマントの襟と額に巻いた布に半ば隠されている端整な顔は苦痛に歪んでいた。神羅屋敷の地下で逢った時とは
比べ物にならないほどの悪夢に見舞われているようだった。
冷たい汗がその肌を濡らし、薄くあいた口から吐き出される息は浅くせわしない。
間歇的に彼から伝わってくる絶望の陰りにエアリスは身を震わせた。
彼の話を聞いて眠ることが償いになるのかと仲間たちは嘲笑したが、これは悪夢どころか夢魔に貪り食われる拷問だ。
普通の人間なら悲鳴と共に飛び起きるところだろうが、傍にエアリスが近づいてもヴィンセントは夢という処刑場から離れ
ようとしない。性質の悪いことに、無慈悲な刑の執行人は彼自身に他ならないのだった。
押し殺したような呻きがかすかに彼女の耳に届いた。
マテリアキーパーの爪で串刺しにされても悲鳴ひとつ上げなかった彼が声を洩らす所からも、その苦しみの程が知れる。
エアリスはきゅっと口を引き結んだ。眠る男の枕元に膝をつき、汗の浮かぶ額にそっと右手を当てる。
もうダメ。これ以上。そんなに、自分を責めないで。
彼の長身が僅かに痙攣した。干渉を拒むように抵抗する力を感じてエアリスは更に強く念じる。
ダメったらダメ。心が、壊れてしまう…!
抵抗はしばらく続いたが、やがてその呼吸が落ち着き、苦しげに身をよじっていた体から力が抜けた。寝惚けた様子もなく
開かれた夕日色の瞳が彼女を見据える。
だがその口から出たのは随分と無礼な言葉だった。
「人の夢を盗み見るのが趣味か」
「起こされちゃったのよ。夜泣きしている誰かさんに」
誰かしらと探したらあなただったわけ、と腹を立てたエアリスも辛辣に言い返す。
ヴィンセントは起き上がり、顔の前に落ちかかってきた長髪を無造作にかき上げた。
蒼白な横顔には憔悴した陰りが見て 取れる。心を閉ざしてしまった彼からは、もうむき出しの感情は伝わってこなかった。
それでも星の声と似た何かが彼の中で沈黙しているのはわかる。彼の人間離れした高い魔力がそこから溢れているのも感じ
取れる。
「不思議」
ぽつりと呟いたエアリスにヴィンセントは視線を向けた。彼女はかつて魔力を測った時のように手のひらをヴィンセントに向け、
静かに目を閉じる。
「あなたから、星の声みたいなものを感じる。どうしてかな」
「……モンスターの因子のせいだろう」
僅かに不貞腐れたような響きのある返答にエアリスは笑い出した。悪夢に魘されていたのを夜泣きと言われてさすがに気分を
害したようだ。
夢の中にまで介入して来た相手を突き放しきれず、持て余しているのだろう。
「残念ながら、モンスターの声は聞けないのよ。でもね」
エアリスのすんなりした白い手がレザースーツを身につけた彼の左胸にそっと重なった。
何かを感じ取ろうとするかのように目を閉じて意識を集中させる。
「…星の声、と、何かを制御している力? そして、何か凄く力のあるものがあなたの中に眠ってる」
預言者のような古代種の末裔の声は、反論することを許さない静かな響きがあった。それに絡め取られたかのようにヴィンセント
は動かない。
「悪いが、何の事だかさっぱりわからない」
暫くしてこぼれた呟きは当惑の響きを持っている。じっと凝視する夕日色の瞳をエアリスは恐れ気もなく見つめ返した。
「全部、あなたの中にあるもの。いつかわかる時が来るよ」
生々しく何度も甦る過去の罪にとらわれていたヴィンセントにとって、未来に向けた言葉は意表を突いたようだ。
「……なぜそこまで干渉する」
殻を破ったとは到底言えない、しかし薄皮一枚は剥がれたような声音に、エアリスは華やかに微笑んだ。
「だって、仲間でしょ」
今度『他人』なんて感じの悪いこと言ったらお仕置きだからね、と念を押す彼女に、ヴィンセントは反論する言葉を知らない。
今までになく神妙な彼にエアリスは笑い、そして小さくあくびをした。
「あ〜あ。睡眠不足はお肌の敵なのに」
もう一眠りしちゃお、とエアリスは立ち上がった。
一方的に介入し一方的に去って行く。その無邪気な強引さはヴィンセントの記憶に残る一人の女性を想起させる。
小さく手を振って寝袋のある一角へ去って行く彼女を見送り、ヴィンセントは立ち上がった。
魔晄炉の扉を開けると明け方の冷えた空気が流れ込んできた。夜中降っていた雨は上がり、ニブル山の空は陰鬱ながらも白々
と明るくなり始めている。
ざわついていた心が穏やかさを取り戻しているのを彼は気付いていた。胸に当てられた手から感じた不思議な癒しの力は、古代
種の特権なのだろうか。
ヴィンセントは夜明けの風に長い黒髪を弄らせたまま、明るさを増していく空を静かに眺めていた。
旅の同行者たちが起きだすまでには、まだもう少し時間がありそうだった。
syun
2011/8/28
「たまにはカッコいいヴィンセントを」と志して書き始めたのですが、微妙にところどころヘタレているような気もします。それでも当サイトにしては
大盤振る舞いでヨイショな描写をしたのですが、いかがでしたでしょうか…?30年近くシャバを離れていたヴィンセントが聞き込みやら新聞レビュー
やらで社会復帰のための情報とるとか、ニブルヘイムの秘密にうすうす気づいているとか、仲間たちの前で初リミブレしちゃうとか、まだよそよそしくて
超冷めてる感じとか、書きたいエピソードが書けて楽しかったです。でもよそよそしいヴィンさんを描いているうちにちょっと物足りなくなってきて(笑)、
エアリス姐さんにざっくりと切り込んでいただきました。最初は彼女に向かっても突き放したこと言って平手打ちを食らうヴィンさん、なんてのも書いて
みたんですが、エアリスは人に手を挙げるキャラじゃないなあと思いまして。このネタはどこかでルク姐さんにやってもらうかと思います。