ガラス越しのキス






 ルクレツィアが倒れた。

 その予兆を感じていた者がいないわけではない。ワーカホリック患者の巣窟であるWRO上層部の中でも、ルクレツィアの
仕事中毒は重症だった。同じ穴の狢のリーブですら見かねて度々休養を勧めたほどだ。

 だが、自らの罪を償うにはこれしかできないと、彼女はジェノバと古代種、星の循環の研究にのめりこんだ。
かつて、絶滅した古代種の復活に情熱を傾けた彼女と、約束の地への水先案内人を求めていた神羅カンパニーの利害は
一致していた。だがプロジェクトの贄としてその身を捧げた彼女が産み出したのは、古代種ではなく宇宙から来た災厄の化身。
 一時は自分の罪の重さに打ちのめされた彼女だったが、周囲の人々とヴィンセントに支えられて真正面から向かい合う道を
選んだ。彼女が参加していたプロジェクトSと、ホランダーが関与していたプロジェクトGの残存する資料を集め、ジェノバの特性
を正確に分析することが最近の彼女の関心事だった。
 しかし、疲労の溜まっていた彼女はバノーラの地下研究所から運び出された資料を整理している最中に昏倒してしまう。
作業を手伝っていたWRO隊員が慌ててリーブに連絡し、一時局長室は騒然となった。


 直ちに医療部門に運ばれたルクレツィアの治療には、医師たちとともにシャルアも参加した。その時ウータイへ出張に出ていた
ヴィンセントは即刻WROに戻ってきたが、小型飛空艇のエンジンが焼ききれるまで最大速力で飛ばし、最後は減速もせずエアポ
ートに突っ込むように着陸した。炎上した艇から飛び降りて本部に駆け込んでいくヴィンセントは、消火作業に追われる職員たち
が苦情を言うのを遠慮するほど動揺していた。



「過労、だな」

 この1週間ほど殆ど寝ていないらしい、とシャルアに言われてヴィンセントは唇を噛み締めた。
リーブの代理としてウータイへの出張は彼にしか出来ないことだった。ユフィの父であるゴドー・キサラギはWROへの協力体制
をとってはいるが、ウータイの国益を最優先し抜け目がない。ゴドーが一目置き、尚且つ友好的に腹の探りあいができる人材は
まだWROには育っていなかった。

 そして彼女から目を離した結果がこれだ。そばに居れば無理やりにでも休息を取らせるのだが、遠く離れていてはそれも思う
に任せない。携帯で休むよう勧めてもうるさがられ、終いには「しつこい!」と怒られて通話を切られてしまう。


こんなに長期間そばを離れなければよかった。

 後悔の苦い思いを噛み締めながら、ヴィンセントは魔晄ボッドの中に浮かぶルクレツィアを見上げた。
白いローブを着て翡翠色の魔晄溶液の中にいる彼女は、カオスの泉にあった水晶柱の中で封じられた時の姿に似ている。
生物としてのぬくもりを感じさせない無機質の彫像のような美しい姿。会話も交わせず触れることもできずに、ただ一方的に語り
かけていた頃の記憶が甦り、ヴィンセントは固く目を閉じて小さく首を振る。


「ジェノバの影響で、不老不死のまま生き続けているという状況そのものに無理がある。生体には目に見えない負担がかかり
 続けているからな」

「…ああ」

こちらも不老不死という特異な存在であるヴィンセントは、首をかしげながらうなづくという器用な反応をした。シャルアは腕組み
をしたまま相手を見やる。


「キミの場合は、メタモルフォーゼ実験で土台が出来ている上、カオス因子によって全身の細胞の組成から変化している。
 同じ不老不死でも彼女とは生体として全く違う存在なんだ」


 エンシェントマテリアが体内にあることで魔力が高く保たれ、それが体力の維持にも関与しているようだとシャルアは科学者の
口調で言ったあと後悔したように口をつぐんだ。


「…すまない。ちょっと言い方がまずかったな」
「いや。分かりやすくていい」

 ルクレツィアのために尽力してくれている友人の気遣いは十分に伝わってくる。だがヴィンセントの表情はすぐに不安げなもの
に変わり、魔晄ポッドを見上げる。髪を切った横顔は、長髪とマントの高襟に半ば埋もれていた時よりも、若くどこか頼りなげに
見えた。

 タークス時代のような髪型はルクレツィアの手によるものだ。ウータイに出かける前の晩、リーブの代理としてゴドーに会うのだ
からそんなザンバラ頭では行かせないと、彼女は面倒くさがるヴィンセントをなだめてその髪に鋏を入れた。リミットブレイクする
たびに一気に背まで届く長さになる彼の髪を切るのは、ルクレツィアの息抜きを兼ねた趣味のようなものだ。
最初は無残に失敗したが回を重ねるごとに上達した彼女は、まるでペットのトリミングを楽しむ飼い主のように時々彼を捕まえて
美容師気分を味わっていた。


「彼女は、…治るのか」

ややかすれた低い声の問いにシャルアは顎をつまんで考え込む。

「命に別状はない。ただ、ここから出て活動できるようになるまでどれほどかかるのかは、今のところわからんな」
「そう…か」

ヴィンセントは再び視線を床に落とした。

 かつて、宝条の実験体として無理な改造を立て続けに施された彼は一度仮死状態になり、再び動けるようになるまで十数年を
昏睡状態で過ごした。不老不死の彼らは過ぎる時間の単位が他の生物とは異なる。過労で倒れたルクレツィアが目覚めるまで
一体何日、いや何年かかるのか、全く分からなかった。

 そばにいながら言葉を交わすことも手を握ることもかなわない。これでは以前に逆戻りだ。

「そう気を落とすな。もしかしたら明日ひょこっと目を覚ますかもしれないぞ」
「ああ。ありがとう」

 精一杯のいたわりを見せるシャルアにヴィンセントはうなづいて見せた。
その寂しげな笑顔に胸を締め付けられ、シャルアは痛ましそうに彼を見つめる。




「ヴィンセント。早かったですね」

 ちょうどその時、研究室の自動ドアが開いてリーブが早足で入ってきた。ヴィンセントにかけるべき言葉を捜しあぐねていた
シャルアは、少しほっとしたように局長を迎える。


「すみませんでした。貴方の留守中にこんなことになってしまって」
「お前があやまることはない」

なるべく休むようにと声をかけてはいたんですが、と悔やむリーブにヴィンセントは首を振る。
 自分自身をすり減らすようにしてまで仕事に打ち込むのは、そうせずにはいられないほどの罪悪感があるからだ。封印されて
いたジェノバを覚醒させ、セフィロスを産み出して星を壊滅寸前になるような事態を引き起こした。
その罪の烙印を背負っているのはジェノバプロジェクトの一員であったヴィンセントも同様。

 だが、ジェノバ戦役でセフィロスと戦い、オメガの宇宙への離脱を阻んで贖罪の機会が与えられた彼と異なり、ルクレツィアは
まだ何も成していない。短期間で華々しい成果を上げられる戦士と違って、科学者の功績は長い時間と忍耐により積み上げられ
ていくものだ。
 早く星と人類に役立つような何かをやりとげなくてはとあせる気持ちもあったのだろう。それが自分を傷付け追い込むような結果
になってもかまわないという思いの激しさは、彼にも理解できる。


「むしろ、WROに負担をかけているのは私たちだ」

 ヴィンセントは二人に背を向けてゆっくりと魔晄ポッドに近づき、その強化ガラスで覆われた表面に片手を当てた。
収容した者の体温を保つための魔晄溶液のぬくもりが、ガラスを通して伝わってくる。生命力の弱った者を収容し、回復させる
ことのできるこの設備がある所は限られている。

 世界を放浪していても苦にならない彼と違ってルクレツィアには住居が必要だ。彼女の贖罪のために科学者として働くことが
出来、万一体に異変が起きた時にも魔晄ポッドがある場所。その全てを満たしていたのがWROだった。


「…だから彼女をここへ運んだ。迷惑がかかるのを承知で、私はお前たちを利用した」

すまない、とヴィンセントはうなだれて小さく呟いた。
シャルアとリーブは黙ったまま顔を見合わせる。ため息をついて先に口を開いたのは腕組みをしたままのシャルアだった。

「悪いが、キミの言っていることはさっぱりわからん」

魔晄ポッドに押し当てられていた指先がわずかに震える。

「彼女は私の同僚だ。具合が悪ければ治療に協力する。ただそれだけのことだろう?」
ん?と同意を求めるように隻眼が隣に居る局長を見上げた。心得たようにリーブが笑顔でうなづく。

「職員が倒れた時に組織としてバックアップするのは当然です」

意表を突かれたような表情でヴィンセントが振り返った。

「それに、これは労災扱いになりますから治療にかかる費用はWRO持ちですね。休職期間中は給与の支給が70%になって
 しまいますが、ここに居る分には生活に支障はないでしょう」


意図して淡々と事務的にリーブは告げる。扱いを誤るとぐずぐず言い出す相手には、規則規定で押し通してしまう方がいい。

「リーブ、だが…」
「ヴィンセント、服務規程読んでますか?ちゃんとそこに書いてありますよ」

貴方も非常勤とはいえ職員なのですから、契約書にサインをした以上承知しておいてもらいませんと、と突っぱねた後で、リーブ
はいたわるような笑みを浮かべた。


「ルクレツィア・クレシェント博士は私たちにとっても大切な人なのです。分かっていただけますか」

 いつもは無表情に近いヴィンセントが無防備に感情を露呈した。見開かれていた夕日色の瞳が揺れ、珍しく泣き笑いのような
表情を見せたかと思うとそれを恥じるように顔を伏せる。


「ヴィンセント?」
「…わかった。彼女を頼む」

 掠れた低い声でヴィンセントはリーブに応じた。ルクレツィアを案じているのは自分だけではないという安堵と、それでもまだ
払拭しきれない罪悪感がうなだれた肩のあたりに漂っている。

 それを見ていたシャルアは、ことさらに盛大な咳払いをした。

「どうでもいいが、その汚い格好は何とかならないのか?どうして煤だらけなんだ?」
「慌てて来たので、ちょっと着陸に失敗したんですよね?」

管制塔から報告を受けていたリーブが鷹揚に笑って代わりに答える。

「いや、失敗したわけでは…」

 急いでいたので減速するのももどかしく、大破してもかまわないと地面に向けて加速したと言うのは、さすがにまずいと今更
気付いてヴィンセントは口ごもった。


「まあ、飛空艇損壊の始末書は後で出していただくとして、とりあえず休息してください」

ウータイから此処まで丸一日、不眠不休で飛空艇を操縦して来たのではお疲れでしょう、とリーブはねぎらう。ルクレツィア博士
も今の貴方を見たら、まず眠ることを勧めると思いますよと促されて、ようやくヴィンセントはうなづいた。





 幹部職員用の宿舎へ戻りシャワーを浴びて寝転がったベッドの上で、ヴィンセントは何度も寝返りを打った。
身体は綿のように疲れていたが、精神が張り詰めていて眠れない。瞼を閉じれば紙のように白いルクレツィアの貌が浮かんで
くる。胎児にジェノバ細胞を移植した後に体調を崩した時の彼女の姿や、水晶柱の中の彼女の姿とそれは重なり、再び彼女を
失うのではないかという予感にヴィンセントは怯えた。

 ただの過労、数日間魔晄ポッドの中で過ごせば回復して出てこられるだろう。彼の理性はそう囁くがその声は小さく弱々しい。

もし、このまま目覚めなかったら。
もし、生体が弱っている間にジェノバ因子の活動が予想外に強まったら。

 何度目かの寝返りの後、彼は眠ることをあきらめて起き上がった。
寝室の部屋の窓からはWRO本部の建物が見える。不夜城である本部には明かりの消えない部屋が所々にあり、ヴィンセントの
視線はそのうちのひとつ医療ブロックに吸い寄せられていった。


『明日ひょこっと目を覚ますかもしれないぞ』

シャルアが彼を元気付けようとかけてくれた言葉が脳裏に甦る。
そうだ。もしかしたら今夜のうちに目覚めることもあるかもしれない。
かつてルクレツィアのラボで治療を受けていた頃、昏睡からわずかに醒めるたびに、必ず心配そうに魔晄ポッドを見上げていた
彼女の姿があるのを見て安心した記憶がある。


彼女が目覚めた時にはそばにいてやりたい。

 ヴィンセントは窓から離れると身支度をして部屋をあとにした。
深夜で職員の通りも殆どない本部への連絡通路を足早に通り抜け、医療ブロックの魔晄治療エリアに入る。夜勤の職員は彼を
見て驚いたが何も言わずに中へ通してくれた。

 やや照明を落とされた室内は、低い機械音がするばかりで静まり返っていた。時折魔晄溶液の中を空気の泡が立ち上っていく
音がする。

ヴィンセントは一番奥の魔晄ポッドに近づいた。長い髪と白いローブを揺らしながらルクレツィアはまだ眠っている。

「…ルクレツィア」

 ヴィンセントは両手の平をガラスにつき、低い声で呼びかけた。当然だと分かってはいたが返事がないことにわずかに落胆し、
思い直したように言葉を続ける。


「…ウータイから戻った」

まるで目覚めているルクレツィアに語りかけるように、ヴィンセントはぽつりぽつりと出張の報告をする。ゴドーとの取引の様子、
相変わらず元気だったユフィ、五強聖の肝いりで忍による特殊部隊ができそうだということ。

 色気も素っ気もない内容だが、彼らの日常会話はこんなものだった。ルクレツィアは自分の研究について一方的に熱く語り、
ヴィンセントは聞かれれば自分の仕事の様子を差し障りのない範囲で話す。それでも時間と空間を共有しているだけで、彼等は
満たされていた。


「ユフィが…君に…会いたがっていた」

 ようやく訪れた眠気で揺らいだ体をポッドの強化ガラスが受け止める。人間の体温よりやや高めに設定されたその温度を感じ
ながら、ヴィンセントはポッドの壁をずり落ちるようにして座り込む。


「…時間が……取れたら…一緒に……い…こう……」

半ば眠りに落ちかかった意識の中で彼女が同意するのを聞いたように思い、ヴィンセントは淡い笑みを浮かべた。


 決められた時間ごとに巡視に来る夜勤の職員は、魔晄ポッドのそばに座り込んだ人影を見て訝しんだ。それがルクレツィアの
ポッドに寄り添うようにして眠っているヴィンセントだと気付いて、意外そうに目を丸くする。
いつも静かに局長の傍らに佇む冷静沈着な彼の姿しか知らない職員は、目の前の光景が不思議なものに見えた。

 魔晄ポッドのゆるいカーブを描くガラス壁に当てられた手はルクレツィアを護ろうとするかのようにも、目覚めない彼女を恋い
慕うようにも見える。並外れた戦闘力と不老不死の身体を持ち、自分たちとは全くかけ離れた存在だと思っていた彼の意外な姿
を見て、職員は我知らずため息をついた。
 大切な人を想う気持ちは、普通の人間と変わらないのだ。
眠るヴィンセントの端整な横顔を見ていると、その切ない思いが伝わってきたような気がして急に鼻の奥がつんと痛んだ。

 職員は慌てて当直室からくたびれた毛布を運んでくるとそっと彼の上に広げ、その眠りを覚まさないように静かにチェックを
終わらせて部屋を出て行った。






「どうなの、様子は?」

 局長室のソファに陣取って出されたオレンジジュースを2杯お替わりしてから、ユフィは本題に入った。
ヴィンセントよりも遅れること2日で彼女もウータイからWROにやって来ていた。忍者の特殊部隊を編成するためにヴィンセント
に相談を持ちかけていたところへ緊急の連絡が入り、彼は文字通り何もかも放り出して飛んで帰ったのだ。


「あんなヴィンちゃん、見たことないよ。ルクレツィアさんも心配だけどアイツも心配」
「彼女はずっと眠っているが、それ以外に異常はない」

いつ目覚めるかは全くわからんがな、とシャルアは腕を組む。

「ヴィンちゃんは?」
「ルクレツィア博士の業務を引き継いで、資料整理をしていますよ」

リーブが落ち着いた声で答える。

「彼女が目覚めたときに、乱雑なままになっている資料を見せたくないと。誰にも手を出させないようです」
「ふーん」

なんか、たまんないねと呟いてユフィはストローの端を噛んだ。

「でも、じっとポッドの前に立っていられるよりはいいじゃん。何かやることがあれば気もまぎれるよ」
「そうだといいのですが」

ユフィの隣でグレープフルーツジュースのグラスを抱えていたシェルクが言う。

「なんだよシェルク。せっかく明るい方向に話を振ってるのに」
「すみませんが、明るくなれる要素はそれほどないですよ」

ストローの先で氷をつつきながらシェルクは続ける。

「ヴィンセントの精神にアクセスできません。まるで厚い扉を閉ざされているようで入っていけないんです」
「…普通入れないでしょうが」
「いえ、そうではなくて」

 SNDで何度もヴィンセントとリンクしたシェルクは、身体接触があればヴィンセントの精神にダイブできる。怒りや悲しみなど
極端に強い感情を彼が抱えていると、接触がなくともそばにいるだけで引きずられることもある。それが今は全くない。


「状況からすると、彼のそばにいれば私も負の感情に取り込まれてもおかしくありません。でも今は何も感じない。
 これは神羅屋敷で彼が自らを封印していた頃に近いものがあります」


 ユフィを始め一同は押し黙った。
やや沈んでいるものの冷静に振舞っているように見える彼が、実は自分の心を、感情を殺しているに過ぎないことを、彼等は
気付いている。気付いているが手の出しようがなくそれに触れないようにしていた。


「彼女がもしこのまま目覚めなかったら、ヴィンセントは少しずつ自分の心を殺して行ってしまうでしょう」
「また引きこもりに逆戻りってわけ?」
「彼女がここにいる以上どこにも行かないだろうが、心理的にはありうるな」

シャルアは腕組みをしたまま首を振った。

「彼の場合身体は死ぬことはないから、その死んだ心を抱えて生き続けるわけだ。かなりきついだろう」

一様に重い沈黙の中に沈んだ彼らを見回して、リーブは口を開いた。

「結論を出すのは早すぎませんか。どうなるか分からない未来なら、わざわざ暗い方向だけを考えることもないでしょう」

落ち着いた口調で一同を諭すように、勇気付けるようにWROの局長は言葉を続ける。

「彼らが不老不死であるということは、解決のための時間が我々よりも長く与えられているということです。
 すぐには無理でも、今後の研究によってはルクレツィア博士の治療法が見つかるかもしれません」


ヴィンセントにとっては待つ時間が長くなるかもしれませんが、というリーブにユフィが元気に応じる。

「そんなの、アタシたちが支えてやればいいだけの話だよね」
「そうですね。彼を孤独にさせないために私たちの次、またその次の世代が支えられればと思いますが」

微笑して答えたリーブはシャルアと視線が合ってわずかに赤面し、いえ仮の話ですがと誰も聞いていない補足説明をする。

「そうだな。あの淀んでいるのにちょっと喝を入れてもいいかもな」
「それ賛成。放っておくと地の底へめり込みそうだよ」

シャルアの意見にも同意してその場の空気を一気に換えたユフィが、隣に座っているシェルクをつついた。

「ねえシェルク、SNDでルクレツィアさん起こせないの?」
「無理を言わないでください」

ユフィの唐突だがもっともな提案にシェルクは苦笑する。

「単体精神のダイブはかなり難しいんです。今までにもヴィンセントにしかしたことがありません」

複数の情報や精神が絡み合った「海」の中ならその隙間を遊泳できる。だが密度の濃い単体精神にダイブすると場合によっては
取り込まれて同化し、戻ってこられなくなる危険性がある。


「…ヴィンセントはすかすかってこと?」
「というより、鷹揚というか執着心がないというか」

 説明するのは難しいですねとシェルクはため息をつく。自分にしか出来ない特殊能力を他人に伝えるのは、苦労する割合には
益がない。
 それに単体精神にダイブするということは、かなり濃厚にその個人と接触するということだ。ツヴィエートを捨てヒトとして生きる
ようになったシェルクにしてみると、誰にでもというわけにはいかない。ある意味、取り込まれて同化しても構わないと思うような
相手でなければ、SNDのリスクを犯す気にはなれない。その意味でも彼女にとってヴィンセントはかなり特殊な存在だ。


 ふ〜んと分かったような分からないような返事をしたユフィは、少し表情を改めてシャルアを見上げた。

「…お見舞い、行ってもいいかな」
「もちろんだ。ルクレツィアも喜ぶだろう」

隻眼の科学者も頬を緩めて妹と同じ年の忍者を見やり、立ち上がった。




 局長と生体科学部門の責任者、それに情報管理部員とウータイの次期領主という顔ぶれを迎えて魔晄治療部の職員はやや
緊張したようだった。それでも淀みない口調でルクレツィアの状況を報告し、ついでに先客があることを伝える。

職員をねぎらって治療室内に入った4人の脚が、申し合わせたわけでもないのに同時に止まった。
 魔晄ポッドの並ぶ室内の一番奥にあるルクレツィアのポッドの前に、背の高い人影が佇んでいた。
内容は聞き取れないが、何かをゆっくりと語りかけている低い声が聞こえる。
見舞いに来たものの声をかけることも憚られる雰囲気に、4人はその場に立ち尽くしたままじっと見守るしかできない。

 眠るルクレツィアを見上げていたヴィンセントは、やがて辛そうに目を閉じて項垂れる。そっとガラス壁の表面に触れた手が拳
を作り小さく震えるのが、目のいいユフィとシェルクには見えた。


「ごめん、やめとく」

身を翻して足早に部屋を出たユフィを追ってリーブも治療室を出る。廊下の壁に手をついて頭をもたせ掛けるユフィの肩に、彼は
そっと手を置いた。

「見てられないよ。ずっとああなわけ?何かしてやれることないの?」

鼻声でまくし立てたユフィは差し出されたリーブのハンカチで盛大に鼻をかむ。

「どんなに辛くても、見守ることしかできないこともあるんですよ」
「ムリムリ。アタシは見てられない」

ユフィはハンカチをひっくり返して乾いた所を見つけるともう一度鼻をかむ。なだめるように忍者娘の細い肩を撫でながら、リーブ
は人数が足りないのに気付いてシャルアとシェルクの姿を探した。


「シェルク、どうした?」

姉の呼びかけにシェルクは我に返る。まばたきすると頬に新たな涙がこぼれ落ちた。ぬぐうこともせずに流していた透明な雫は
彼女の頬を伝い、細い顎から胸元へときらめきながら落ちていく。


「お姉ちゃん…」
「大丈夫か?」
「これ、私のじゃない。彼の涙です」

一瞬リンクしたヴィンセントの心は、哀しみに満ちていた。喪失の予感に怯える気持ちと何も出来ない自分への怒り。
こんな思いを抱えながら毎日過ごしているのかと思うと、シェルクの胸は張り裂けそうになる。
 かつて、重傷を負って魔晄ポッドで眠る姉を見た時、シェルクの感情は凍りついたまま動くことはなかった。人としての感覚を
取り戻した今、その時のことを思い出すと後悔と悲しみで取り乱しそうになる。それと似た思いをヴィンセントはずっと抱えていると
思うと、何もせずにいることはできなかった。


―――  ルクレツィア・クレシェント。どうか目覚めてください。これ以上哀しむ彼を見ていたくありません   ―――

嘆願のような、祈りのような、強い思い。
涙をぬぐおうともせずにまっすぐに魔晄ポッドを見据えたシェルクの瞳がオレンジ色の光を宿した。

「シェルク?おい、シェルク!」

瞳だけを光らせたまま人形のように立ち尽くすシェルクをシャルアは揺さぶった。その声に俯いていたヴィンセントが顔を上げる。
今更のように来客に気付いて、彼は魔晄ポッドから離れ二人のそばに歩み寄った。


「どうした?」
「多分、ルクレツィアの精神にダイブしたんだと思う」
「何?」

 沈んだ表情のヴィンセントに驚きの色が走る。小柄な少女の姿をした異能者を振り返ったその視線の先で、シェルクの身体は
ゆっくりと倒れかかった。素早く抱きとめた彼の腕の中で力を使い果たしたシェルクは昏倒していた。


「頑張りすぎ。少し寝かせておけば大丈夫だ」

困惑して救いを求めるように見つめるヴィンセントにシャルアは肩をすくめて見せた。

「この子専用のポッドがある。私のラボまで連れて来てくれるか」
「ああ」

小柄な身体を抱き上げて、彼はシャルアの後に続いて部屋を出た。そこにも仲間の姿があるのを認めて、ヴィンセントの表情が
わずかに動く。


「シェルクさん?」
「シェルク、どうしたの?!」

鼻をすすっていたユフィと、そのそばに居たリーブが驚いてそばに来た。
ヴィンセントの腕の中で白い顔をしたシェルクを覗き込み、ユフィはその頬を軽く叩く。シャルアは彼らを安心させるために笑って
みせる。


SNDで疲れただけだ。ポッドで寝かせる」
「やったの? 難しいって言ってたじゃん」
「誰かさんがしょぼくれすぎて、見ていられなくなったんだろ」

ちらりと隻眼に見上げられてヴィンセントはたじろぐ。その胸をシャルアは人差し指で軽く小突いた。

「もう目覚めないと決まった訳でもなし、少しはしゃっきりしろ。彼女が起きたら、ずっとめそめそしてたって言いつけるぞ」
「………」
「我々が全力をあげて治療してるんだ。少しは信頼しろ」
「信頼はしている」
「だったらもっと…」
「あの、取り込み中すみません」

シェルクを抱えたまま廊下の真ん中でシャルアに説教されているヴィンセントを見かね、リーブが助け舟を出す。

「シェルクさんを早く休ませてあげたほうがいいんじゃないでしょうかね?」
「あ、そうだったな」

 ここで押し問答しても仕方がないと納得したシャルアはあっさりと行動を切り替える。
顎をしゃくってさっさと歩き出した彼女の後に付いて行くヴィンセントの隣にユフィが並んだ。


「あのさ、シャルアはヴィンちゃんを元気付けようとして言ったんだよ」
「…お前に慰められるほど、私は落ち込んで見えるのか」
「うん!」

 ユフィは両拳を握って大きくうなづいた。全力で肯定されるとそれはそれでへこむ材料になる。
ユフィやシェルクにまで心配されるようでは駄目だと肩を落としたヴィンセントの反対側に、今度はリーブが並んだ。


「無理に元気を出せとは言いませんが、私たちが貴方を支えているということは忘れないでください」

押し付けるでもなく突き放すでもなく。大きな組織を束ねる男はそれにふさわしい包容力を見せる。

「呑んで発散、という訳ではないのですけど、いいカルバドスが手に入ったんですよ。どうです?そのうちに」
「…悪くないな」

リーブのところに届く酒は上物が多い。今までと違った声のトーンで答えたヴィンセントの脇腹に、ユフィが軽くジャブを入れる。
左右からそれぞれの表現で彼を力づけようとする二人と腕の中シェルクに視線を落とし、ヴィンセントの唇にようやく笑みが浮か
んだ。





 その夜、魔晄ポッドに寄り添うヴィンセントはいつもより柔らかい表情でルクレツィアを見上げていた。

「…めそめそするなとシャルアに叱られた」

すっかり彼専用になってしまった毛布に包まってポッドに寄りかかり、苦笑しながら彼はルクレツィアに報告する。

「ユフィにまで心配されるようでは、私も終わったな」

 シェルクがSNDを行ったが今のところルクレツィアには大きな変化は見られない。だが、仲間たちに支えられているから私は
大丈夫だと、ヴィンセントは今までとは異なる口調で語りかけていた。


「だから、君は君の必要なだけゆっくりと休むといい。私はずっとここで見守っているから」

 たとえそれが何年、何十年になろうとも。ヴィンセントはうつむきその年数の重さを噛み締める。
貴重な魔晄ポッドをルクレツィアのために長期間専有することの重大さも分かる。彼はそのためにWROに拘束されることもかま
わないと思った。彼女の治療の対価を自分が貢献することで支払えるなら、それでもいい。局長が代替わりしても、リーブの後継
者を納得させる仕事をするだけのことだ。



 自分の思考に深く沈んでいたヴィンセントの耳に、かすかな音が届いた。遠くでガラスをノックしているような硬い音。
顔を起こしたヴィンセントの視界に、魔晄溶液の中でルクレツィアがもの問いたげに首を傾げている様子が飛び込んでくる。

「ルクレツィア…!!」

 弾かれるように立ち上がったヴィンセントは、足元にわだかまった毛布に足をとられてつまづきながら、魔晄ポッドのガラス壁に
手をつく。翡翠色の魔晄溶液に髪とローブを揺らしながら、ルクレツィアはポッドの底に舞い降りてガラス壁に顔を寄せた。

疲労の色が拭い去られたその顔は困惑しているようだ。自分がどうなって、何故ポッドに入っているのかが分からないのだろう。

「今、シャルアを呼んでくる」

 離れようとしたヴィンセントをルクレツィアは壁をノックして首を振り引き止める。そばにいて、と唇が動くのを読み取った彼は、
迷いながらも再びポッドに張り付いた。彼女の治療を担当している職員に早く知らせなければとは思うが、そのうちに夜勤の職員
が見回りに来るだろう。その時に伝えればいい。


魔晄溶液の中で揺らめく彼女の姿は、生気を取り戻して美しかった。

 ヴィンセントはガラスの内側から当てている彼女の手のひらに合わせるように、自分の両手をガラスに合わせた。
そこに彼女がいるだけで、瞳を開き意思表示をしてくれる彼女がいるだけで、世界は色彩を取り戻す。
人工的に温められた魔晄溶液のぬくもりがまるで彼女のぬくもりのように感じられる。視界が揺れてぼやけたのに気付いたヴィ
ンセントは瞳を閉じ、額をガラスにもたせ掛けた。

 コツン、とわずかな振動に瞳を開くと、すぐそばに同じようにガラスに額を押し付けた彼女の顔がある。柔らかい笑顔につられて
ヴィンセントも笑みを浮かべた。
少し前までは仲間たちを気遣うために口端を上げることだけが精一杯で、笑顔の作り方など忘れてしまっていたが、今は身体の
奥底から湧き上がってくる喜びで自然に表情がほころびる。

 まるでいつも目覚めた時にする挨拶と同じように、ルクレツィアはガラス越しにキスを送ってきた。戸惑う彼を悪戯っぽい瞳で
見ながら頬をガラスに当てて、お返しのキスを要求する。

 ヴィンセントは赤面した。いくら何でもそれは恥ずかしい。やや身を引いて首を振る彼をルクレツィアはふくれて睨み、指先で
ピアノを弾くようにガラスを叩いて催促する。

 思わず周囲を見回して誰もいないのを確認し、ヴィンセントは小さく息を吐き出してからガラスに口付けた。微笑んだ彼女が
内側から唇を寄せるのを感じ、胸にあたたかいものが広がるのを心地よく感じる。



 いつしか二人だけの世界に没頭した彼は、元タークスらしからぬことに夜勤の職員が入り口で仰天しているのにも気付かない
ままだった。









                                                                                                                                                                                                                   
                                                                          syun
                                                                        2009/9/21








いやもう、こんな話でどうもすみません。こういうタイプの話がお好きではない方にはほんとに申し訳ないです。DCのターヴィン萌えでちょっと
いつもの路線と違った話もいいかも、と書いてしまいました。タイトルからしてこっ恥ずかしいのですが、名が体を現していた方が読者さまにも
親切かと思いまして。ルクさんがジェノバのせいで不老不死というなら、大勢いるソルジャーやらセフィロスやらクラウドやらはどうなるんだと思う
のですが、その辺はよく判らないのでパス(オイ)。でも生体としてはかなり無理がある状態だと思うので、度々魔晄ポッドでお休みしているの
ではと妄想してみました。
眠れる姫はナイトのキスで目覚めるものとファンタジーでは相場が決まっているのですが、自力で目覚た姫にキスを
要求されちゃうあたり、我が家のヴィンさんらしい情けなさがにじみ出てますね。ナイトどころかお母さんが病気になっちゃって病室で付き添い
しながら泣き疲れて寝ちゃった子供、でしかないような気もします(笑)






Novels.